Vol.113 2021年5月号
2021年05月01日
皆様お元気でお過ごしでしょうか。
5月になりました。
今月も経営サポート隊通信を
元気にお届けいたします!
【河合由紀子のちょっとイイ話】
日経ビジネスオンライン(2020.11.20)で、島精機製作所の創業者であり会長である島正博氏のインタビュー記事を見つけました。戦後、様々な困難に見舞われながらも、前進を続けてきた不屈の精神が語られています。興味深い記事でしたので、今後も少しずつ掲載していきたいと思います。
『私が生まれ育ち、80年あまりの人生を送ってきた和歌山は、古くから繊維産業と縁の深い土地柄です。振り返ってみれば、アパレル産業を改善したいという思いに突き動かされて走り続けてきました。
子どものころからいろいろなものを発明してきましたが、人生の原点となったのはやはり16歳の時に発明した「二重環かがりミシン」でしょうか。メリヤス工場に勤め、家では軍手を編む内職をしていた母の苦労を少しでも減らしたいと思ったのがきっかけでした。当時の軍手は、甲の部分と手首の部分を別々に編んでから手作業でつなぎ合わせる工程が必要でした。私が発明したミシンなら、セットするだけで簡単につなぎ合わせることができます。仕上がりの強度も伸縮性も十分。結果、1日当たり1人3ダースだった生産量が、20ダースまで増えました。
繊維産業の課題解決に挑み続けるうちに至った一つの到達点が、無縫製ニット「ホールガーメント」の横編み機です。衣料品をまるごと立体的に編み上げる技術で、生地を裁断する必要もなければ、縫製もいりません。コンピューター上でデザインし、そのデータを入力すると、普通のセーターなら約30分、凝ったワンピースでも1時間ぐらいで、3Dプリンターのように完成形が機械から出てきます。好みの色や形で、ぴったりのサイズ。そんな世界に1着だけの服を、それほど高くない価格でオーダーメードできる。そんな仕組みが整えば、顧客の精神的な満足度は高くなるし、同時に生産や在庫、流通のロスもなくなる。人類の欲求を満たしながら、地球環境の保全にもつながります。
そんな目指す姿の実現が見えてきましたが、たくさんの困難に立ち向かった人生でした。これでダメだったら命を絶とうと覚悟したことすらありました。まずは私にとって人生最大のピンチだった1960年代、島精機製作所を創業した直後のことをお話ししましょうか。
いまから56年前。1964年の11月末、私は人生の崖っぷちにいました。全自動手袋編み機の開発を目指して創業してから3年目。初期型の機械はすでに完成していたのですが、なかなか思うように動いてくれません。一度に多くの機能を求めた結果、構造があまりに複雑になってしまい、部品の精度も生産体制もその要求に応えられなかったのです。見切り発車で製品化して売り出したものの、故障続き。加えて代理店の商社と販売価格をめぐって亀裂が生じました。我々は工場出し価格に10万円を上乗せした40万円を売値として希望していましたが、先方は75万円に設定して譲らない。こんなに高くてはとても売れないし、私が商売の心構えにしている「たらい理論」にも反する。
たらいにためた水を手前に引くと、一瞬は水位が上がるけれども、すぐに水が指から抜けていってしまう。逆に水を奥に押しやると、たらいの縁にぶつかった水が高くなって戻ってきますよね。まずはお客さんにもうけてもらえば、繰り返しの注文が入って利益が巡ってくる。それが創業時からの私の考え方でした。
販売価格の引き下げを要求しましたが、「値段をつけるのは売り主の勝手や」と一蹴されます。こう言われては私も収まりません。「なら、作るのは作る側の勝手やよって。もう作りません」。こうたんかを切って製造を打ち切ってしまいました。それが64年11月です。』
この後の内容は次号に続きます。