経営サポート隊通信 | 大阪の経営支援ならプラス・パートナー
今月の金言
今月の金言

2025年6月の金言

2025年06月02日


Vol.162 2025年6月号

2025年06月02日

6月になりました。皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします!
【河合由紀子のちょっとイイ話】

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

今月は「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書(致知出版社)」から、かつてのヤナセ会長、柳瀬次郎氏のお話をご紹介したいと思います。

『ベンツ納入をきっかけに「たまには遊びに来なさい」と言ってくださる吉田茂翁のお言葉に甘えて、私はたびたび吉田邸にお邪魔し、食事を御馳走になりました。

ある時、食事中に翁から質問されました。

「日本は、全く地下資源に恵まれていない国だ。これから世界の国と肩を並べてやっていくためには、どうすればいいと思うか。」

突然の質問に、私は慌てて箸を置き、自分なりに答えを考えて申し上げました。「世界の人々と仲良く付き合い、互いに協力し合わなければならないと思います」すると、吉田翁は続いて聞かれました。「その通りだ。では、そのために、日本人は何を勉強すべきだろうか」いよいよ難しい質問です。

「世界の人々と仲良くするために、やはり英語を勉強するべきでしょうか」と私。すると、吉田翁は言われました。

「それも不必要ではない。だが、もっと大切なことがある。それは、日本の歴史を勉強することだ。歴史を学び国を愛する愛国心と、国際性とは表裏一体のものだ」私は、自分も歴史を知らないことを猛反省し、その日から時代小説を片っ端から読み始めました。歴史を知ると、ものの見方に幅が生まれてきます。と同時に、時代の立役者といわれるような人物の生き方を勉強すると、昔の日本人は政治家も商人も体を張り、命を懸けて働いていたことを知らされ、翻って現代人の浅薄さを痛感させられるのです。

別のある時、吉田翁は次のように言われました。

「日本に地下資源がないと言った。だが、実は一つだけある。それは、勤勉だ。この唯一の地下資源を失ってしまったら、日本人は惨めなことになるよ」残念ながら、吉田翁のこの予言は、かなり当たってしまったようです。日本人は、期待した以上の経済発展に、油断と自惚れと慢心を起こし、他人に尽くす心を忘れ、『自己中心病』にかかってしまってはいないだろうか。

吉田翁の晩年の丸い笑顔を写真で見るたびに私は、日本人はもう一度、力を合わせて働き、日本の唯一の地下資源である勤勉を取り戻さなければならなないのではないか、という思いを禁じえないのです。』

休みが増え、長時間労働が制限されて、ワークライフバランスという言葉のもとに、『働く』ということの捉え方が大きく変わってきています。もちろん、人生を犠牲にして長い時間働くこと、周りに気を遣って残業したり、誰かが犠牲を強いられたりすることは、決して良いことではありません。ただ、本来日本人が持っている勤勉さは、本当に日本の資源だと思います。ただ問題をもぐらたたきのように潰していく方法ではなく、その資源を活かし、世界と渡り合っていく方法があるのではないかと思います。日本はダメなところに注目してそれをなおそうとする文化ですが、ダメなところが普通レベルになったからといって、素晴らしい成果が得られるでしょうか。それよりも、良いところに目を向けて、良いところを伸ばしていくように考え方を変えることに、勤勉さを活かすことができるようになるヒントがあるのではないでしょうか。


2025年5月の金言

2025年05月01日


Vol.161 2025年5月号

2025年05月01日

5月になりました。皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします!
【河合由紀子のちょっとイイ話】

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

今月も先月に引き続き、明治29年創業の「あずきバー」で有名な三重県津市に本社のある井村屋グループ会長中島伸子氏のインタビューをご紹介します。

『北陸支店長を経て、2001年に49歳で関東支店の副支店長となり、東京へ単身赴任しました。2年後に支店長となったのですが、前任の支店長は取締役の男性だったんですよ。役員でない女性の私が就くんですから、いま思えば、このギャップをどう埋めるかをもっと考えなきゃいけなかったんですけど、業績はジリ貧になってしまいました。どうにか打開しようと上野動物園のパンダ人気に目をつけ、中華まんをパンダの顔にしたパンダまん、これを上野公園の売店で売ろうと提案したんです。年上の営業課長たちは「いいですね」「さすが女性のアイデアです」と言うものの、一向に商談に行かない。それで若い営業マンに聞いてみたら、「僕らは毎月一億、二億の予算を持っています。一軒ずつ商品を売り歩いている時間はありません。だから、田舎から来た支店長は嫌なんですよね」って言うんですよ。これにはさすがに弱りましたね。皆が私のことをどう思っているのか知りたくて、支店の営業員約40名にアンケートを実施しました。①はいないほうがいい、②はどちらかというといないほうがいい、③は普通、④は少しは役に立つ、⑤は役に立つ。そうしたら全員が①から③なんですよ。無記名投票にも拘わらず、わざわざ名前を書いて①をつけてくる人もいて、非常にショックでした。

誰も私のことを信用していないんだ。会社の役に立たないんだったらいないほうがいいんじゃないか。一週間くらい悩んだ末、上司である専務取締役営業本部長の浅田剛夫に辞表を出しました。すると浅田は「どういうことや」と。アンケート結果が散々で自信を失くし、支店長としての器じゃないと感じましたと打ち明けたら、辞表を突き返してこう言ったんです。「何を言っとるんだ。評価はお客様がしてくれるものだ。考え方が間違ってる。そんなアンケートを取る暇があったら営業先に聞いてきなさい」その時は泣く泣く階段を下りて自席に戻りましたけど、よく考えたら全くその通りで、私が間違っていました。一からやり直そうと決め、営業マンと一緒に毎日得意先を回り、徐々に結果を出していったことで、社員からも信用を得ることができたんです。もしあの時、浅田に「俺が全員を叱ってやろう」と言われていたら、きっと自分に甘くなって成長も止まっていたし、なおさら会社の役に立たなくなっていたでしょうね。だから、厳しくしかってくれてよかったなと、その時から勝手に、この人をメンターにしてもっと鍛えてもらおうと思ったんです。81歳のいまも厳しいですが、すごく尊敬していますし、最も薫陶を受けた人です。(中略)

日頃よく社員に伝えているのは、「一人の百歩よりも百人の一歩」、これは私が社長になった2019年からずっと言い続けています。一人のスーパーマンが百歩走っても、どこかで息切れすると思うんですよね。それよりも百人がそれぞれの知恵を持ち寄って一歩ずつ進む組織の方が強いし、継続性もある。チームの心を一つにすることが大事という思いを込めているんです。(中略)今年はさらに一歩進めて、「プロの一人、チーム百人の掛け算」という経営メッセージを4月1日の朝礼で打ち出しました。皆さん、チームで仕事をするということをよく捉えて、現場で実行していただいている。これからは一人ひとりがさらにプロフェッショナルを磨き、お互いに共有や交換をすることで、チーム力に掛け算がうまれていくと伝えたんです。私の信条は二つありまして、一つは「夢はでっかく、根は深く、葉っぱ広し」もう一つは「自分の人生のハンドルは自分しか握れないし、扉の鍵を開けられるのは自分だけ」です。(中略)学べば学ぶほど根を深く張ることができる。人生のどんな壁でも越えられる力を人間は持っている。生きていること自体が素晴らしい。ですから、自信と誇りを持って、希望を抱いて生き抜いていくことが大事だと思います。』

いかがでしたか?波乱万丈の人生ですが、ご自身の信条に基づいて、つらいことがあるたびに自ら気づき、変わっていかれた姿が印象的でした。


2025年4月の金言

2025年04月01日


Vol.160 2025年4月号

2025年04月01日

4月になりました。皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします!
【河合由紀子のちょっとイイ話】

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

今月も先月に引き続き、明治29年創業の「あずきバー」で有名な三重県津市に本社のある井村屋グループ会長中島伸子氏のインタビューをご紹介します。

北陸トンネル列車火災事故という壮絶な経験の後、実家で療養しながらぶらぶら過ごしていた時に、父親から渡された手紙をきっかけに人生が変わり始めます。

(致知2024年6月号「人生のハンドルを握り扉を開けられるのは自分だけ」より)

『ある時、父が手紙をくれましてね。こう書かれていました。「君は自分の人生をどうするんだ。声が出なくても立派に生きている人はたくさんいる。声が出ないことを気にするんだったら、自分だけの“プラス1”を探しなさい。それがあれば必ず人の役に立つ。“辛い”という文字に一本足せば、“幸せ”という字になる。それを忘れずに一所懸命生きていくことが亡くなった人への恩返しであり使命ではないか」この手紙は非常に心に残っていて、アルバムに貼っていまでも大切に持っています。当時の私は、あのお母さんから託された子供の命を救えなかった後悔や事故の後遺症で教師の夢を絶たれた無念に苛まれ、この辛い気持ちをどうしたらいいか分からない、誰かに救ってほしいという未熟さがあったんですね。父の言葉が何にも代えがたい心の支えになり、それをきっかけに立ち直っていきました。短大を卒業後、高校時代の同級生と結婚し、声をあまり使わなくてもできる仕事をと思って始めたのが、井村屋の福井営業所での経理事務のアルバイトだったんです。23歳の時です。経理は未経験だったので、夜間学校に通って勉強しましたし、電話番はできない代わりに、配達でもトイレ掃除でも何でもしますと言って、4トントラックの免許を取得して運転したりもしました。その時に「ああ、そうか。仕事に貴賤はない。必要だからその仕事が存在している。どんな仕事でも一所懸命やろう」と思ったんです。そこに、父から言われた「プラス1」を足せばきっと私らしい仕事ができると。そういう中で、カップアイスの蓋を開けやすくする改善提案をしたところ、これが採用されて賞をもらいました。バイトでも分け隔てなく表彰してくれる社風に感動しましてね。学校の先生になりたいという未練を捨て、社員登用試験を受けて正社員になったんです。

経理の仕事に習熟してくると営業所の売り上げや在庫の動きを把握できるようになり、それが上司の目に留まって営業畑に進むことになりました。女性が営業職に就くことすら珍しい時代だったので、福井営業所長に就任した時、ある取引先の社長を訪ねたら、「女の営業をよこすなんて」と吐き捨てるように言われ、中に入れてもらえなかったんです。帰りの車の中で涙が溢れて仕方ありませんでした。でも、翌朝5時半に起きて7時にもう一度訪問したんです。2時間くらい待ったでしょうか。社長が出勤してきて「入れ」と。そこで「きょうの株価は知ってるか」「世の中はどうなってるんや」「海外は」と聞かれ、何も答えられなかったんですよ。すると、「経済のことを全く知らない人間に、僕らが大事な話をすると思うか。あんたの中に、女性だからっていう甘えがあるんじゃないか。そんなんで営業所長が務まるんか」と。おかげで目が覚めましたね。社長のおっしゃる通りで、それまでの私には「女性だから断られるのかな」「私が悪いわけじゃないのに」という思いが強かったんです。いま考えても、私が未熟だったことは当然ですけど、その社長は私を一人の企業人として見てアドバイスしてくれたんですよ。もし女性だからという理由で本当に蔑んでいたら、2回目に行った時も相手にしなかったはずでしょう。そうではなくて、実に3時間にもわたって企業人としてのあるべき姿を懇々と説き諭してくれました。それ以来、人より勉強しなければと痛感し、新聞や雑誌を毎日読んで情報収集することはもちろん、消費生活アドバイザーや調理師免許をはじめ、実務に役立つ様々な資格を取得していきました。その社長はもう亡くなられましたが、いまも本当に感謝しています。』

いかがでしたか?来月は東京支店長となった際のエピソードと今の思いをご紹介いたします。


-
お試し診断はこちら