2025年4月の金言
2025年04月01日

2025年4月の金言
2025年04月01日
Vol.160 2025年4月号
2025年04月01日
4月になりました。皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします!
【河合由紀子のちょっとイイ話】
【河合由紀子のちょっとイイ話】
今月も先月に引き続き、明治29年創業の「あずきバー」で有名な三重県津市に本社のある井村屋グループ会長中島伸子氏のインタビューをご紹介します。
北陸トンネル列車火災事故という壮絶な経験の後、実家で療養しながらぶらぶら過ごしていた時に、父親から渡された手紙をきっかけに人生が変わり始めます。
(致知2024年6月号「人生のハンドルを握り扉を開けられるのは自分だけ」より)
『ある時、父が手紙をくれましてね。こう書かれていました。「君は自分の人生をどうするんだ。声が出なくても立派に生きている人はたくさんいる。声が出ないことを気にするんだったら、自分だけの“プラス1”を探しなさい。それがあれば必ず人の役に立つ。“辛い”という文字に一本足せば、“幸せ”という字になる。それを忘れずに一所懸命生きていくことが亡くなった人への恩返しであり使命ではないか」この手紙は非常に心に残っていて、アルバムに貼っていまでも大切に持っています。当時の私は、あのお母さんから託された子供の命を救えなかった後悔や事故の後遺症で教師の夢を絶たれた無念に苛まれ、この辛い気持ちをどうしたらいいか分からない、誰かに救ってほしいという未熟さがあったんですね。父の言葉が何にも代えがたい心の支えになり、それをきっかけに立ち直っていきました。短大を卒業後、高校時代の同級生と結婚し、声をあまり使わなくてもできる仕事をと思って始めたのが、井村屋の福井営業所での経理事務のアルバイトだったんです。23歳の時です。経理は未経験だったので、夜間学校に通って勉強しましたし、電話番はできない代わりに、配達でもトイレ掃除でも何でもしますと言って、4トントラックの免許を取得して運転したりもしました。その時に「ああ、そうか。仕事に貴賤はない。必要だからその仕事が存在している。どんな仕事でも一所懸命やろう」と思ったんです。そこに、父から言われた「プラス1」を足せばきっと私らしい仕事ができると。そういう中で、カップアイスの蓋を開けやすくする改善提案をしたところ、これが採用されて賞をもらいました。バイトでも分け隔てなく表彰してくれる社風に感動しましてね。学校の先生になりたいという未練を捨て、社員登用試験を受けて正社員になったんです。
経理の仕事に習熟してくると営業所の売り上げや在庫の動きを把握できるようになり、それが上司の目に留まって営業畑に進むことになりました。女性が営業職に就くことすら珍しい時代だったので、福井営業所長に就任した時、ある取引先の社長を訪ねたら、「女の営業をよこすなんて」と吐き捨てるように言われ、中に入れてもらえなかったんです。帰りの車の中で涙が溢れて仕方ありませんでした。でも、翌朝5時半に起きて7時にもう一度訪問したんです。2時間くらい待ったでしょうか。社長が出勤してきて「入れ」と。そこで「きょうの株価は知ってるか」「世の中はどうなってるんや」「海外は」と聞かれ、何も答えられなかったんですよ。すると、「経済のことを全く知らない人間に、僕らが大事な話をすると思うか。あんたの中に、女性だからっていう甘えがあるんじゃないか。そんなんで営業所長が務まるんか」と。おかげで目が覚めましたね。社長のおっしゃる通りで、それまでの私には「女性だから断られるのかな」「私が悪いわけじゃないのに」という思いが強かったんです。いま考えても、私が未熟だったことは当然ですけど、その社長は私を一人の企業人として見てアドバイスしてくれたんですよ。もし女性だからという理由で本当に蔑んでいたら、2回目に行った時も相手にしなかったはずでしょう。そうではなくて、実に3時間にもわたって企業人としてのあるべき姿を懇々と説き諭してくれました。それ以来、人より勉強しなければと痛感し、新聞や雑誌を毎日読んで情報収集することはもちろん、消費生活アドバイザーや調理師免許をはじめ、実務に役立つ様々な資格を取得していきました。その社長はもう亡くなられましたが、いまも本当に感謝しています。』
いかがでしたか?来月は東京支店長となった際のエピソードと今の思いをご紹介いたします。
2025年3月の金言
2025年03月03日
Vol.159 2025年3月号
2025年03月03日
少しずつ春めいてきましたが
皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします!
【河合由紀子のちょっとイイ話】
今月は先月に引き続き、明治29年創業「あずきバー」で有名な三重県津市に本社のある井村屋グループ会長中島伸子氏のインタビューをご紹介します。
中島会長は、20歳になる直前に北陸トンネル列車火災事故というその後の人生を大きく変える出来事に遭っています。
(致知2024年6月号「人生のハンドルを握り扉を開けられるのは自分だけ」より)
『死者30名、負傷者714名を出した大惨事でした。もっとも、事故の体験を話すようになったのは、私が社長になってからなんです。私は戦後間もない1952年に新潟県の妙高市に生まれ育ちました。冬は3メートルほど雪が積もりますから、本を読むくらいしかすることがなく、小さいころから読書は大好きでしたね。(中略)雪が深いと学校の先生は家に帰れず、母の家がお寺だったので、そのお堂を宿坊にしていたんです。そうすると、先生たちは本をたくさん持ってきている。その姿をみながら「いいな」と。(中略)大きくなるにつれ、たくさんの生徒の人生を導いていく尊い仕事だと思い至り、教師になることを夢見ていたんです。
11月6日が事故の日で、11月8日が私の誕生日でした。当時、福井県に1人で暮らしていたのですが、家族が20歳の誕生日をお祝いしてくれるというので、敦賀から夜行列車に乗りました。4人掛けのボックス席で、目の前に3人の子供を連れたお母さんが座っていらして、生後2ヶ月のこと3歳と5歳、皆男の子でした。一番下の子は今回おじいちゃんとおばあちゃんに初めて会わせると。(中略)で、トンネルに入ってすぐでした。ガターッとものすごい音がして電気が消えて真っ暗になったんですよ。でも、私たちの車両は明るかった。なぜって隣の食堂車が燃えていたからです。次の瞬間、さっき出会ったばかりのお母さんが私の腕をギュッと掴んで、泣きながら言うんです。「3人の子供を連れては逃げられない。だけど長男は跡取り。この子だけでも連れて逃げてほしい」それで私は「嫌だ嫌だ」「お母さんお母さん」と大泣きする5歳の男の子を抱きかかえて窓から飛び降りたんですね。ところが着地した時の衝撃で子どもの手を離してしまった。どこにいるか全然分からない。黒煙が充満する中、一所懸命名前を叫んで探しているうちに気絶してしまったんです。意識を取り戻したのは、事故から2日後のちょうど私の誕生日でした。それまでは生死の境を彷徨っていて、向こうで誰かが読んでいるような感覚も実際ありました。両親が病院のベッドで寝ている私の傍で泣いていて、その涙が肌に触れた瞬間、冷たくて「あれ?」って。それで目が覚めたんです。その直後に、お母さんと3人の男の子が全員亡くなったことを知らされました。救ってあげられなかった辛さはいまもずっと残っています。あの時の5歳の子の顔が忘れられなくて…
私自身、一酸化炭素中毒で声帯が麻痺ひて声が出なくなり、3ヶ月入院しました。最初に喉から煤の塊が出てきたときは驚きでしたよ。声を使う仕事は諦めたほうがいいと医者に言われ、教師の道を断念せざるを得なかったんです。自分の行き先がある日突然ブッチッと切れてしまった。少しずつかすれ声は出せるようになりましたが、退院して3~4ヶ月は実家で療養しながら何もせずぶらぶら過ごしていました。』
壮絶な事故を経験した後、人生の目標がなくなり何もせずに過ごしていた中島会長は父から手紙を渡されます。来月はその手紙と、その後現在の立場に至るまでのお話をご紹介します。
2025年2月の金言
2025年02月03日
Vol.158 2025年2月号
2025年02月03日
皆さま寒い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか?
今月も経営サポート隊通信を元気にお届けいたします!
【河合由紀子のちょっとイイ話】
今月は明治29年創業「あずきバー」で有名な、三重県津市に本社のある井村屋グループ会長中島伸子氏のインタビューをご紹介します。
中島氏はアルバイト出身で同社初の女性社長です。様々な試練を乗り越え、歴史ある会社で社員を育成し、チームを一つにしてきた秘訣を垣間見ることができます。
(致知2024年6月号「人生のハンドルを握り扉を開けられるのは自分だけ」より)
『創業から128年の歴史を刻んでこられましたが、今日まで発展し続けることができた理由はどこにあるとお考えですか?
明治29年に井村和蔵が三重県松阪市で菓子舗「井村屋」を開業したのが当社の起源です。当時から「人こそ宝」という言葉をずっと大切にしてきたんですね。その創業精神は脈々と受け継がれていると思います。例えば、昔から定年は男女とも同じでしたし、50年ほど前から社内託児所を運営していました。当時子供を預ける社員は一人か二人だったと聞いていますが、それでも保育士を雇って社員が働きやすい環境を整えていったんです。現在は、産休・育休後100%の社員が職場復帰してくれています。私自身も3人の子供を育ててきましたけど、いつも言うんですよ、子供は世界の宝だって。たまたま自分のところに生まれてきただけで、本当は世界の宝ですからしっかり育てる義務があります。(中略)
言い換えれば、当社の強みは「特色経営」と「不易流行」の追求にあると思っています。特色経営とは、要するに他社の真似ではない独自の新商品を常に提供し続けること。不易流行は松尾芭蕉の言葉として有名ですが、変えてはいけないものを守りつつ、時代に合わせて変化していく。(中略)看板商品の「あずきバー」も同じですよ。無添加・無着色・無香料で、ぜんざいをそのまま凍らせたようなバーアイスをどうつくるか。1973年に発売したのですが、開発当初はあずきの粒が下の方に固まって、非常に苦労したそうです。あずきバー1本には、丸々の粒と味を出すために少し潰した粒が合わせて百粒以上あるんですよ。それを均等に入れるために、先輩方が創意工夫を加えてきました。だからこそお客様に愛され続け、シリーズ年間3億本販売するロングセラーに育ったのでしょう。去年ちょうどあずきバーの発売から50周年を迎えた時に、これまで使用していたコーンスターチをあずきパウダーに変更しました。数年前から開発の人たちが研究していまして、使用原料を減らしてクリーンラベル化するとともに、あずきの深味がさらに増したと思います。加えて、50周年を機に、「こしあんバー」という商品を数量限定で出したんですね。この企画は開発部から提案があったんですが、経営陣の中には「粒があってこその商品だから、お客様は求めてないんじゃないか」と。しかし、「これもあずきをおいしく食べる一つですから」と食い下がり、約1年かかって「試しにやってみな」と言う話になったんです。8月に発売したらあっという間に売り切れまして(中略)、問い合わせが1ヶ月で2000件くらい。これはもう初めての経験でした。どうしてもやりたいという若い社員たちのパッション。経営陣から出される課題をクリアしてくる粘り強さ。これこそ当社の強みを生み出す原点ですね。』
いかがでしたか?来月は、中島氏の人生にスポットを当てた内容をお届けしますので、お楽しみに。
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