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経営サポート隊通信
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Vol.163 2025年7月号

2025年07月01日

皆さまお元気でお過ごしでしょうか?
今年も後半に入りました。時のたつのは本当に早いですね。
それでは、今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします!

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

今月はプレジデントオンラインの記事から、鎌倉に本社を構えるチョコレート・ブランド「メゾンカカオ」の創業社長、石原紳伍氏のインタビューをお届けします。

メゾンカカオは、ANA国際線ファーストクラスや即位の礼の各国首脳への機内手土産として採用されるなど、高い評価を受けています。石原紳伍氏は、学生時代はラグビー選手として活躍、大学卒業後に入社したリクルートでは営業成績の新記録を達成したという異色の経歴の持ち主です。(プレジデントオンライン 山田清機2025年5月23日)

『2025年2月14日、神奈川県茅ヶ崎市のすべての市立小中学校と県立茅ヶ崎支援学校の生徒および教職員、名古屋市立の全小学校・全特別支援学校小学部の生徒に、花の形をした個包装のチョコレートがひとつずつ配られた。総数、12万9800個。配布したのは、茅ヶ崎市今宿に工場を構える「メゾンカカオ」というチョコレート・ブランドである。プレゼントされたチョコレートは植物性素材のオーツミルクを使ったヴィーガンチョコレートで、地球環境の保全などを訴えるメゾンカカオの社長の熱いメッセージが添えられていた。ANAのファーストクラスで提供されたり、G20大阪サミットや即位の礼の土産物に選ばれるなど、華々しい実績を誇るメゾンカカオの社長は、石原紳伍さん(40歳)という。高校時代にラグビーの花形選手として活躍した、異色の経歴の持ち主だ。

大阪生まれの石原さんの実家は、牛のホルモンを中心とした串焼き屋を経営していた。店は毎日深夜の3時、4時まで営業しており、弟とふたり、両親の仕事が終わるまで店の奥の休憩室で眠り、店が終わると両親と一緒に二階に上がって布団に横になるという生活を送った。文字通りの職住一致。両親が働く姿と客の笑い声が、幼少期の「色の濃い」思い出だという。「実家の近くには鉄工場が多くて、小学校まで通う通りはいつも油が焦げた匂いがしました。ものづくりが、とても身近にある環境でしたね」中学からラグビーに打ち込み、高校は推薦でラグビーの強豪校に入学。1年生でレギュラーの座を射止め、自他ともに認めるスター選手となった。だが、強豪校のラグビー部の日常は苛烈を極めた。練習の厳しさもさることながら、先輩後輩の上下関係がとても厳しかった。「僕がいた当時の話ですが、3年生にひとり、2年生にもひとり『師匠』がいて、練習が終わると、そのふたりがドロドロに汚したユニフォームから下着からスパイクから、すべてを洗濯しなければなりませんでした。師匠がシャワーを浴びている間はバスタオルを持ってシャワールームの中で待機するんです。師匠が飲むドリンクもそれぞれ5リットルずつ、毎日用意しなければなりませんでした……」これ以外にも不条理なしきたりがあり、1年生はグラウンドで練習が始まる頃にはヘトヘトになってしまう。それが遠因にもなって、石原さんは高校2年のときに大怪我をして試合に出られなくなってしまった。「大学ラグビーのスカウトマンは高2の実績を評価するのですが、僕には高2の実績がなかったので、当時の強豪校だった早慶明からは声がかかりませんでした」唯一、声をかけてくれたのが新興勢力の帝京大学だった。1年生時代の実績を評価して石原さんを「拾ってくれた」のだ。大学に入っても、高2の怪我の影響は長く尾を引いた。かつてはグラウンドの空間を手に取るように把握できたが、怪我に対する恐怖心によって、空間把握の感覚を完全に失っていた。それでもなんとかレギュラーになり、複数あるチームの中の上位チームでプレーできるまでに回復した。だが、満を持して最終学年のシーズンに臨もうというとき、思いがけない出来事が降りかかってきた。

「新4年生の中から学生コーチをひとり出すことになったから、全員が学生コーチになってもいいという覚悟ができたら、新4年生全員で監督のところへ来いというのです」学生コーチになるということは、試合には出ないことを意味する。つまり、現役のプレーヤーではなくなるということだ。必然的に、ラグビーで実業団に就職する道も断たれることになる。初代の学生コーチに就任することは名誉なことでもあったが、ラグビーに命をかけてきた以上、誰だって試合に出たい。進んでコーチになりたがる部員はいなかった。「新4年生が全員集まって、毎晩2時間近く話し合いました。お前はレギュラーになる見込みはないんだからお前がコーチをやれとか、ケンカごしの議論を続けましたが、期限が来てしまったので仕方なく全員で監督のところへ行ったんです。そうしたら、石原が初代の学生コーチになれと」来月は石原氏がリクルートを退社してメゾンカカオを創業するに至った経緯をお届けいたします。


Vol.162 2025年6月号

2025年06月02日

6月になりました。皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします!
【河合由紀子のちょっとイイ話】

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

今月は「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書(致知出版社)」から、かつてのヤナセ会長、柳瀬次郎氏のお話をご紹介したいと思います。

『ベンツ納入をきっかけに「たまには遊びに来なさい」と言ってくださる吉田茂翁のお言葉に甘えて、私はたびたび吉田邸にお邪魔し、食事を御馳走になりました。

ある時、食事中に翁から質問されました。

「日本は、全く地下資源に恵まれていない国だ。これから世界の国と肩を並べてやっていくためには、どうすればいいと思うか。」

突然の質問に、私は慌てて箸を置き、自分なりに答えを考えて申し上げました。「世界の人々と仲良く付き合い、互いに協力し合わなければならないと思います」すると、吉田翁は続いて聞かれました。「その通りだ。では、そのために、日本人は何を勉強すべきだろうか」いよいよ難しい質問です。

「世界の人々と仲良くするために、やはり英語を勉強するべきでしょうか」と私。すると、吉田翁は言われました。

「それも不必要ではない。だが、もっと大切なことがある。それは、日本の歴史を勉強することだ。歴史を学び国を愛する愛国心と、国際性とは表裏一体のものだ」私は、自分も歴史を知らないことを猛反省し、その日から時代小説を片っ端から読み始めました。歴史を知ると、ものの見方に幅が生まれてきます。と同時に、時代の立役者といわれるような人物の生き方を勉強すると、昔の日本人は政治家も商人も体を張り、命を懸けて働いていたことを知らされ、翻って現代人の浅薄さを痛感させられるのです。

別のある時、吉田翁は次のように言われました。

「日本に地下資源がないと言った。だが、実は一つだけある。それは、勤勉だ。この唯一の地下資源を失ってしまったら、日本人は惨めなことになるよ」残念ながら、吉田翁のこの予言は、かなり当たってしまったようです。日本人は、期待した以上の経済発展に、油断と自惚れと慢心を起こし、他人に尽くす心を忘れ、『自己中心病』にかかってしまってはいないだろうか。

吉田翁の晩年の丸い笑顔を写真で見るたびに私は、日本人はもう一度、力を合わせて働き、日本の唯一の地下資源である勤勉を取り戻さなければならなないのではないか、という思いを禁じえないのです。』

休みが増え、長時間労働が制限されて、ワークライフバランスという言葉のもとに、『働く』ということの捉え方が大きく変わってきています。もちろん、人生を犠牲にして長い時間働くこと、周りに気を遣って残業したり、誰かが犠牲を強いられたりすることは、決して良いことではありません。ただ、本来日本人が持っている勤勉さは、本当に日本の資源だと思います。ただ問題をもぐらたたきのように潰していく方法ではなく、その資源を活かし、世界と渡り合っていく方法があるのではないかと思います。日本はダメなところに注目してそれをなおそうとする文化ですが、ダメなところが普通レベルになったからといって、素晴らしい成果が得られるでしょうか。それよりも、良いところに目を向けて、良いところを伸ばしていくように考え方を変えることに、勤勉さを活かすことができるようになるヒントがあるのではないでしょうか。


Vol.161 2025年5月号

2025年05月01日

5月になりました。皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします!
【河合由紀子のちょっとイイ話】

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

今月も先月に引き続き、明治29年創業の「あずきバー」で有名な三重県津市に本社のある井村屋グループ会長中島伸子氏のインタビューをご紹介します。

『北陸支店長を経て、2001年に49歳で関東支店の副支店長となり、東京へ単身赴任しました。2年後に支店長となったのですが、前任の支店長は取締役の男性だったんですよ。役員でない女性の私が就くんですから、いま思えば、このギャップをどう埋めるかをもっと考えなきゃいけなかったんですけど、業績はジリ貧になってしまいました。どうにか打開しようと上野動物園のパンダ人気に目をつけ、中華まんをパンダの顔にしたパンダまん、これを上野公園の売店で売ろうと提案したんです。年上の営業課長たちは「いいですね」「さすが女性のアイデアです」と言うものの、一向に商談に行かない。それで若い営業マンに聞いてみたら、「僕らは毎月一億、二億の予算を持っています。一軒ずつ商品を売り歩いている時間はありません。だから、田舎から来た支店長は嫌なんですよね」って言うんですよ。これにはさすがに弱りましたね。皆が私のことをどう思っているのか知りたくて、支店の営業員約40名にアンケートを実施しました。①はいないほうがいい、②はどちらかというといないほうがいい、③は普通、④は少しは役に立つ、⑤は役に立つ。そうしたら全員が①から③なんですよ。無記名投票にも拘わらず、わざわざ名前を書いて①をつけてくる人もいて、非常にショックでした。

誰も私のことを信用していないんだ。会社の役に立たないんだったらいないほうがいいんじゃないか。一週間くらい悩んだ末、上司である専務取締役営業本部長の浅田剛夫に辞表を出しました。すると浅田は「どういうことや」と。アンケート結果が散々で自信を失くし、支店長としての器じゃないと感じましたと打ち明けたら、辞表を突き返してこう言ったんです。「何を言っとるんだ。評価はお客様がしてくれるものだ。考え方が間違ってる。そんなアンケートを取る暇があったら営業先に聞いてきなさい」その時は泣く泣く階段を下りて自席に戻りましたけど、よく考えたら全くその通りで、私が間違っていました。一からやり直そうと決め、営業マンと一緒に毎日得意先を回り、徐々に結果を出していったことで、社員からも信用を得ることができたんです。もしあの時、浅田に「俺が全員を叱ってやろう」と言われていたら、きっと自分に甘くなって成長も止まっていたし、なおさら会社の役に立たなくなっていたでしょうね。だから、厳しくしかってくれてよかったなと、その時から勝手に、この人をメンターにしてもっと鍛えてもらおうと思ったんです。81歳のいまも厳しいですが、すごく尊敬していますし、最も薫陶を受けた人です。(中略)

日頃よく社員に伝えているのは、「一人の百歩よりも百人の一歩」、これは私が社長になった2019年からずっと言い続けています。一人のスーパーマンが百歩走っても、どこかで息切れすると思うんですよね。それよりも百人がそれぞれの知恵を持ち寄って一歩ずつ進む組織の方が強いし、継続性もある。チームの心を一つにすることが大事という思いを込めているんです。(中略)今年はさらに一歩進めて、「プロの一人、チーム百人の掛け算」という経営メッセージを4月1日の朝礼で打ち出しました。皆さん、チームで仕事をするということをよく捉えて、現場で実行していただいている。これからは一人ひとりがさらにプロフェッショナルを磨き、お互いに共有や交換をすることで、チーム力に掛け算がうまれていくと伝えたんです。私の信条は二つありまして、一つは「夢はでっかく、根は深く、葉っぱ広し」もう一つは「自分の人生のハンドルは自分しか握れないし、扉の鍵を開けられるのは自分だけ」です。(中略)学べば学ぶほど根を深く張ることができる。人生のどんな壁でも越えられる力を人間は持っている。生きていること自体が素晴らしい。ですから、自信と誇りを持って、希望を抱いて生き抜いていくことが大事だと思います。』

いかがでしたか?波乱万丈の人生ですが、ご自身の信条に基づいて、つらいことがあるたびに自ら気づき、変わっていかれた姿が印象的でした。


Vol.160 2025年4月号

2025年04月01日

4月になりました。皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします!
【河合由紀子のちょっとイイ話】

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

今月も先月に引き続き、明治29年創業の「あずきバー」で有名な三重県津市に本社のある井村屋グループ会長中島伸子氏のインタビューをご紹介します。

北陸トンネル列車火災事故という壮絶な経験の後、実家で療養しながらぶらぶら過ごしていた時に、父親から渡された手紙をきっかけに人生が変わり始めます。

(致知2024年6月号「人生のハンドルを握り扉を開けられるのは自分だけ」より)

『ある時、父が手紙をくれましてね。こう書かれていました。「君は自分の人生をどうするんだ。声が出なくても立派に生きている人はたくさんいる。声が出ないことを気にするんだったら、自分だけの“プラス1”を探しなさい。それがあれば必ず人の役に立つ。“辛い”という文字に一本足せば、“幸せ”という字になる。それを忘れずに一所懸命生きていくことが亡くなった人への恩返しであり使命ではないか」この手紙は非常に心に残っていて、アルバムに貼っていまでも大切に持っています。当時の私は、あのお母さんから託された子供の命を救えなかった後悔や事故の後遺症で教師の夢を絶たれた無念に苛まれ、この辛い気持ちをどうしたらいいか分からない、誰かに救ってほしいという未熟さがあったんですね。父の言葉が何にも代えがたい心の支えになり、それをきっかけに立ち直っていきました。短大を卒業後、高校時代の同級生と結婚し、声をあまり使わなくてもできる仕事をと思って始めたのが、井村屋の福井営業所での経理事務のアルバイトだったんです。23歳の時です。経理は未経験だったので、夜間学校に通って勉強しましたし、電話番はできない代わりに、配達でもトイレ掃除でも何でもしますと言って、4トントラックの免許を取得して運転したりもしました。その時に「ああ、そうか。仕事に貴賤はない。必要だからその仕事が存在している。どんな仕事でも一所懸命やろう」と思ったんです。そこに、父から言われた「プラス1」を足せばきっと私らしい仕事ができると。そういう中で、カップアイスの蓋を開けやすくする改善提案をしたところ、これが採用されて賞をもらいました。バイトでも分け隔てなく表彰してくれる社風に感動しましてね。学校の先生になりたいという未練を捨て、社員登用試験を受けて正社員になったんです。

経理の仕事に習熟してくると営業所の売り上げや在庫の動きを把握できるようになり、それが上司の目に留まって営業畑に進むことになりました。女性が営業職に就くことすら珍しい時代だったので、福井営業所長に就任した時、ある取引先の社長を訪ねたら、「女の営業をよこすなんて」と吐き捨てるように言われ、中に入れてもらえなかったんです。帰りの車の中で涙が溢れて仕方ありませんでした。でも、翌朝5時半に起きて7時にもう一度訪問したんです。2時間くらい待ったでしょうか。社長が出勤してきて「入れ」と。そこで「きょうの株価は知ってるか」「世の中はどうなってるんや」「海外は」と聞かれ、何も答えられなかったんですよ。すると、「経済のことを全く知らない人間に、僕らが大事な話をすると思うか。あんたの中に、女性だからっていう甘えがあるんじゃないか。そんなんで営業所長が務まるんか」と。おかげで目が覚めましたね。社長のおっしゃる通りで、それまでの私には「女性だから断られるのかな」「私が悪いわけじゃないのに」という思いが強かったんです。いま考えても、私が未熟だったことは当然ですけど、その社長は私を一人の企業人として見てアドバイスしてくれたんですよ。もし女性だからという理由で本当に蔑んでいたら、2回目に行った時も相手にしなかったはずでしょう。そうではなくて、実に3時間にもわたって企業人としてのあるべき姿を懇々と説き諭してくれました。それ以来、人より勉強しなければと痛感し、新聞や雑誌を毎日読んで情報収集することはもちろん、消費生活アドバイザーや調理師免許をはじめ、実務に役立つ様々な資格を取得していきました。その社長はもう亡くなられましたが、いまも本当に感謝しています。』

いかがでしたか?来月は東京支店長となった際のエピソードと今の思いをご紹介いたします。


Vol.159 2025年3月号

2025年03月03日

少しずつ春めいてきましたが
皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします!

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

今月は先月に引き続き、明治29年創業「あずきバー」で有名な三重県津市に本社のある井村屋グループ会長中島伸子氏のインタビューをご紹介します。

中島会長は、20歳になる直前に北陸トンネル列車火災事故というその後の人生を大きく変える出来事に遭っています。

(致知2024年6月号「人生のハンドルを握り扉を開けられるのは自分だけ」より)

『死者30名、負傷者714名を出した大惨事でした。もっとも、事故の体験を話すようになったのは、私が社長になってからなんです。私は戦後間もない1952年に新潟県の妙高市に生まれ育ちました。冬は3メートルほど雪が積もりますから、本を読むくらいしかすることがなく、小さいころから読書は大好きでしたね。(中略)雪が深いと学校の先生は家に帰れず、母の家がお寺だったので、そのお堂を宿坊にしていたんです。そうすると、先生たちは本をたくさん持ってきている。その姿をみながら「いいな」と。(中略)大きくなるにつれ、たくさんの生徒の人生を導いていく尊い仕事だと思い至り、教師になることを夢見ていたんです。

11月6日が事故の日で、11月8日が私の誕生日でした。当時、福井県に1人で暮らしていたのですが、家族が20歳の誕生日をお祝いしてくれるというので、敦賀から夜行列車に乗りました。4人掛けのボックス席で、目の前に3人の子供を連れたお母さんが座っていらして、生後2ヶ月のこと3歳と5歳、皆男の子でした。一番下の子は今回おじいちゃんとおばあちゃんに初めて会わせると。(中略)で、トンネルに入ってすぐでした。ガターッとものすごい音がして電気が消えて真っ暗になったんですよ。でも、私たちの車両は明るかった。なぜって隣の食堂車が燃えていたからです。次の瞬間、さっき出会ったばかりのお母さんが私の腕をギュッと掴んで、泣きながら言うんです。「3人の子供を連れては逃げられない。だけど長男は跡取り。この子だけでも連れて逃げてほしい」それで私は「嫌だ嫌だ」「お母さんお母さん」と大泣きする5歳の男の子を抱きかかえて窓から飛び降りたんですね。ところが着地した時の衝撃で子どもの手を離してしまった。どこにいるか全然分からない。黒煙が充満する中、一所懸命名前を叫んで探しているうちに気絶してしまったんです。意識を取り戻したのは、事故から2日後のちょうど私の誕生日でした。それまでは生死の境を彷徨っていて、向こうで誰かが読んでいるような感覚も実際ありました。両親が病院のベッドで寝ている私の傍で泣いていて、その涙が肌に触れた瞬間、冷たくて「あれ?」って。それで目が覚めたんです。その直後に、お母さんと3人の男の子が全員亡くなったことを知らされました。救ってあげられなかった辛さはいまもずっと残っています。あの時の5歳の子の顔が忘れられなくて…

私自身、一酸化炭素中毒で声帯が麻痺ひて声が出なくなり、3ヶ月入院しました。最初に喉から煤の塊が出てきたときは驚きでしたよ。声を使う仕事は諦めたほうがいいと医者に言われ、教師の道を断念せざるを得なかったんです。自分の行き先がある日突然ブッチッと切れてしまった。少しずつかすれ声は出せるようになりましたが、退院して3~4ヶ月は実家で療養しながら何もせずぶらぶら過ごしていました。』

壮絶な事故を経験した後、人生の目標がなくなり何もせずに過ごしていた中島会長は父から手紙を渡されます。来月はその手紙と、その後現在の立場に至るまでのお話をご紹介します。


Vol.158 2025年2月号

2025年02月03日

皆さま寒い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか?
今月も経営サポート隊通信を元気にお届けいたします!

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

今月は明治29年創業「あずきバー」で有名な、三重県津市に本社のある井村屋グループ会長中島伸子氏のインタビューをご紹介します。

中島氏はアルバイト出身で同社初の女性社長です。様々な試練を乗り越え、歴史ある会社で社員を育成し、チームを一つにしてきた秘訣を垣間見ることができます。

(致知2024年6月号「人生のハンドルを握り扉を開けられるのは自分だけ」より)

『創業から128年の歴史を刻んでこられましたが、今日まで発展し続けることができた理由はどこにあるとお考えですか?

明治29年に井村和蔵が三重県松阪市で菓子舗「井村屋」を開業したのが当社の起源です。当時から「人こそ宝」という言葉をずっと大切にしてきたんですね。その創業精神は脈々と受け継がれていると思います。例えば、昔から定年は男女とも同じでしたし、50年ほど前から社内託児所を運営していました。当時子供を預ける社員は一人か二人だったと聞いていますが、それでも保育士を雇って社員が働きやすい環境を整えていったんです。現在は、産休・育休後100%の社員が職場復帰してくれています。私自身も3人の子供を育ててきましたけど、いつも言うんですよ、子供は世界の宝だって。たまたま自分のところに生まれてきただけで、本当は世界の宝ですからしっかり育てる義務があります。(中略)

言い換えれば、当社の強みは「特色経営」と「不易流行」の追求にあると思っています。特色経営とは、要するに他社の真似ではない独自の新商品を常に提供し続けること。不易流行は松尾芭蕉の言葉として有名ですが、変えてはいけないものを守りつつ、時代に合わせて変化していく。(中略)看板商品の「あずきバー」も同じですよ。無添加・無着色・無香料で、ぜんざいをそのまま凍らせたようなバーアイスをどうつくるか。1973年に発売したのですが、開発当初はあずきの粒が下の方に固まって、非常に苦労したそうです。あずきバー1本には、丸々の粒と味を出すために少し潰した粒が合わせて百粒以上あるんですよ。それを均等に入れるために、先輩方が創意工夫を加えてきました。だからこそお客様に愛され続け、シリーズ年間3億本販売するロングセラーに育ったのでしょう。去年ちょうどあずきバーの発売から50周年を迎えた時に、これまで使用していたコーンスターチをあずきパウダーに変更しました。数年前から開発の人たちが研究していまして、使用原料を減らしてクリーンラベル化するとともに、あずきの深味がさらに増したと思います。加えて、50周年を機に、「こしあんバー」という商品を数量限定で出したんですね。この企画は開発部から提案があったんですが、経営陣の中には「粒があってこその商品だから、お客様は求めてないんじゃないか」と。しかし、「これもあずきをおいしく食べる一つですから」と食い下がり、約1年かかって「試しにやってみな」と言う話になったんです。8月に発売したらあっという間に売り切れまして(中略)、問い合わせが1ヶ月で2000件くらい。これはもう初めての経験でした。どうしてもやりたいという若い社員たちのパッション。経営陣から出される課題をクリアしてくる粘り強さ。これこそ当社の強みを生み出す原点ですね。』

いかがでしたか?来月は、中島氏の人生にスポットを当てた内容をお届けしますので、お楽しみに。


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