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経営サポート隊通信
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Vol.168 2025年12月号

2025年12月01日

今年は皆さまにとってどんな一年でしたでしょうか?
2025年最後の経営サポート隊通信を元気にお届けいたします。

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

何年か前に話題になった『Life Shift100年時代の人生戦略』『Life Shift2 100年時代の行動戦略』(アンドリュー・スコット/リンダ・グラットン著 東洋経済新聞社)という本を読んでいます。

お読みになった方もいらっしゃると思いますが、100歳まで生きる人が増えてくるという予測が濃厚になってきていること、そうなった場合人はどのように人生を設計していけばいいのか、ということが書かれています。未来の話であり、個人の選択によるところが多い話ですので答えは明確にはなりませんが、何点か、はっきりしていることがあります。今月はこの2冊の本から私が感じたことをお伝えしたいと思います。

この本では100歳まで生きる人が増える可能性が高く、そのような時代になった場合、人はどのように行動し、人生を設計していけばよいのかについて過去の歴史を紐解きながら、数値で未来を予測して考察しています。65歳や70歳で引退してあとは年金で十分生活していけるというわけにはいかないこと。そのため仕事をする時期はこれまでより長くなるけれども、テクノロジーのめざましい発展により、同一の職業を続けることは困難になるため、途中で職を変えたり新たな知識や技術を習得することが必要になること。そのため、今までのように年齢では人の人生のステージを、学習する時期、労働する時期、そして引退後、という3つのステージに分けることができなくなってくると予測され、年齢では一概にその人がどのステージにあるのか分からなくなるということが書かれています。

皆さんは“長生き”に対してどのような印象を持っていらっしゃるでしょうか?人生50年だった時代から見ると日本では平均寿命が80歳を超える今の時代は想像もつかないかもしれませんが、実際今ではそれが当たり前です。平均寿命が100歳になるのも、そう遠い未来ではないかもしれません。そうなった場合社会の仕組みが変わる必要がありますが、完全に次の仕組みに移行するまでに時間がかかることが予想されます。年金の仕組みも大幅に変わらざるを得ないでしょうし、働き方も多くの選択肢ができると考えられます。どこかの企業に所属するのか、フリーで複数の仕事をするのか、あるいは一時的に新しいスキルを身につけるために離職するのか、自分の生きる道を見つけるために色々なことを試してみるのか。年齢にとらわれず自分で人生を切り開いていくことが必要になってくると本著の中で繰り返されています。

また、職業も大切ですが、家族、友人関係をどのように築いていくかも100歳まで生きる人生にとっては大切なことだと書かれています。人生のさまざまなステージを生きぬくために、良好な人間関係がその人の人生を大きく左右するのです。人生の危機を乗り越え、共に喜びを分かち合うことができるかどうかによって人生の豊かさが大きくちがってくるのはうなずけるところです。

ほんの数年前までなかったテクノロジーがすでに私たちの生活に浸透していることを考えると、私たちは気づかないうちに変化を受け入れ、使いこなしています。それは誰かが長い年月をかけて開発したものが形になって、その成果を受け入れたということですが、自らの未来は自ら変化を起こさなければ誰も与えてくれません。自分が100歳まで生きる、子どもが孫が100歳まで生きると考えた時、私たちに何ができるでしょうか。そんな時代がくるのはそう遠くないようです。未来に向けて今何をするのか、たくさんのヒントをくれる本だと思います。ご興味のある方は是非!一読の価値ありです。

今年も大変お世話になりました。来年が皆さまにとって良い年になりますように!


Vol.167 2025年11月号

2025年11月04日

皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今年もあと2ヶ月ですね。                             
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします!

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

今月も先月に引き続き、プレジデントオンラインの記事からチョコレート・ブランド「メゾンカカオ」の創業社長、石原紳伍氏のインタビューをお届けいたします。

メゾンカカオは、ANA国際線ファーストクラスや即位の礼の各国首脳への機内手土産として採用されるなど、高い評価を受けています。石原氏は、学生時代はラグビー選手として活躍、大学卒業後に入社したリクルートでは営業成績の新記録を達成、将来の幹部候補として順風満帆な人生を歩んでいましたが、退職してチョコレートのブランドを立ち上げたという異色の経歴の持ち主です。いよいよ今月は最終回。石原氏がなぜ鎌倉を創業の地に選んだのか、今後何を目指していくのか、先月から引き続きご紹介いたします。(プレジデントオンライン 山田清機2025年5月23日)

『「鎌倉は海を介して宋との貿易を始めた都市であり、禅の精神を日本に広めた都市でもあります。鎌倉というと武士が作ったイメージが強いと思いますが、禅的な美意識の強い町でもあると同時に、実は文士が作った町でもある。こうした背景もあって、鎌倉には文化の変化を受け入れるソフトな感覚があるのです。湘南地方は移住者が多い場所ですが、サーフカルチャーに象徴されるように、鎌倉には過去の歴史をフィーチャーしつつ新しいものを理解し受け入れていく環境がある。裏返して言えば、京都のような排他性がない。メゾンカカオが鎌倉を選んだ理由はそこにあります」

開業当初、老舗が軒を連ねる鎌倉では1年もたないだろうと噂されたそうだが、メゾンカカオは今年、開業10周年を迎える。それには鎌倉という「場所」の力も寄与しているということだろうか。

「鎌倉は店舗ごとの固定ファンが強く歴史の長いものを信頼する空気がある一方で、鶴岡八幡宮の宮司さんなんかもまさにそうなのですが、進化や新陳代謝を拒否しない探究心や許容力がある文化もあり、サーフカルチャーが存在することでそのふたつが融合しているのです。そこが鎌倉の大きな魅力ですね」

メゾンカカオの生チョコレートには、海塩を使った「SURF」という商品がある。創業10周年を迎えたメゾンカカオは、鎌倉発祥であることを、今後どのようにしてブランディングに結びつけていくのか。シャンパーニュのように、KAMAKURAがチョコレートの代名詞として世界に認知される日が来るのだろうか。石原さんは、100年かけて日本にチョコレート文化を創造していくことを自らのミッションとして掲げている。俗に食は三代と言うが、100年といえばほぼ三世代である。

「まだ、何の達成感もありませんが、100年続くブランドの基礎を僕が社長をやっている間に作りたいと思っています。10年目にはこんなことをやった、20年目にはこんなことがあったと、いまは、未来に向けた手紙を書いている最中だと思っているのです」

メゾンカカオはコロンビアのカカオ農場とパートナーシップ契約を結ぶだけなく、財団を設立してコロンビアに学校を建てるプロジェクトも推進しており、すでに複数の学校を建設している。ご存じの通り、コロンビアは麻薬の原料、コカの一大生産地でもある。そしてカカオの生産地とコカの生産地は重なっており、麻薬に起因する児童虐待も多く学校に通っていない子どもも多いという。そうした地域に学校を建てることは、コロンビアが100年永続するブランドのパートナーであることを考えれば、「それは僕の夢でもあったし、必要不可欠で当然のことでした」と石原さんは言い切るのである。

「僕が生きているうちには叶えられないことが多いと思いますが、100年後、メゾンカカオがどのようなブランドになっているかは、今行うすべての意思決定によると思います。未来は今、作られている。その覚悟と信念を持って仲間と進んでいきたいです」』

いかがでしたか?夢を長い時間軸と世界との関りという広い視野で語る石原氏、未来は誰にも分りませんが、分からないからこそ向かっていく方向を決めることが、未来への道を切り開く道しるべとなるのだと思います。


Vol.166 2025年10月号

2025年10月01日

秋も深まる11月になりました。
皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今月も経営サポート隊通信を元気にお届けいたします!

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】
             
今月も先月に引き続き、プレジデントオンラインの記事からチョコレート・ブランド「メゾンカカオ」の創業社長、石原紳伍氏のインタビューをお届けします。

メゾンカカオは、ANA国際線ファーストクラスや即位の礼の各国首脳への機内手土産として採用されるなど、高い評価を受けています。石原氏は、学生時代はラグビー選手として活躍、大学卒業後に入社したリクルートでは営業成績の新記録を達成したという異色の経歴の持ち主です。(プレジデントオンライン 山田清機2025年5月23日)

“自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ”というリクルート創業者である江副浩正氏の言葉に従って、リクルートを退職し新たな道を歩み始めた石原氏はコロンビアでチョコレートに出会います。

『「僕がコロンビアで出会ったのは、まるで南国のフルーツのようなカカオの実の味わいと、日本における日本茶と和菓子のように、日常にチョコレートが溶け込んだ人々の生活でした。コロンビアの人たちには毎朝チョコレートドリンクを飲む習慣があって、生産者と生活者がカカオでつながっている。その風景が、とても素敵だったのです。一方で、日本のチョコレートといえば、当時はバレンタインデーのギフトという刷り込みとコンビニで売っている“砂糖菓子”のイメージが中心。僕はコロンビアで『カカオの幸せ』を目の当たりにして、日本でも日常的にチョコレートを楽しむ文化づくりができないかと考えたのです」

コロンビアでは、仕事と生活とチョコレートが日常の中で自然につながり合っていた。それは、石原さんの大阪の実家での原体験に通じる風景でもあり、職と住と食の融合こそ、石原さんが理想とする文化のありようなのだろう。石原さんは、単なる消費財としてチョコレートを作り、売るのではなく、その国の文化と呼べるレベルにまで、日常生活にチョコレートを浸透させたいという遠大な理想を描くようになったわけだ。あまりにも遠大過ぎる気もするが……。

「たとえば、ジャパニーズ・ウイスキーはいまでこそ世界的な評価を得ていますが、鳥井信治郎さんがスコッチに学びながら国産ウイスキーをつくり始めた当初は、おそらく今とは品質も大きく違ったでしょうし、事業としても厳しい時代が長かったと思います。しかし、それから90年以上たって(※「白札」の愛称を持つ「サントリーウイスキー」は1929年発売)ウイスキー文化はすっかり日本に定着しましたよね」だから、チョコレートも、日常にしっかり根を張った文化として日本に定着していく可能性があるということだろうか。

「寿司に代表される日本の食は明らかに世界の食文化をリードしていますが、残念ながら日本は、『場所』に根差した文化のブランディングが苦手だと感じています。たとえば、シャンパンはスパークリングワインの一種ですが、フランス政府はシャンパーニュ地方のスパークリングワインしかシャンパンと呼ばせません。ヨーロッパはこうした場所ごとのブランディングがとても上手い。僕は日本の食のブランディングを、チョコレートを通じて広げていきたいと思っているのです」

無暗にチョコレート文化を広めようというのではなく、特定の場所に根差した文化として広めていこうという戦略だろうか。となると、メゾンカカオの本拠地である鎌倉が重要な意味を持ってくることになる。石原さんにとって鎌倉とは、いったいどのような「場所」だろうか。メゾンカカオは現在8店舗を展開している。先述の通り、本社は鎌倉にあり本店も鎌倉の小町通りにある。石原さんが大阪出身であることを考えれば、関西、たとえば京都や奈良での店舗展開もあり得たはずだが……。

「文化を創造する以上、京都、奈良、鎌倉の三大文化都市のいずれかで勝負をしたいという思いがありました。ではなぜ鎌倉を選んだのかといえば、海に面していることがとても大きいですね」』

石原氏がなぜ鎌倉を創業の地に選んだのか、今後何を目指していくのか、来月ご紹介したいと思います。


Vol.165 2025年9月号

2025年09月01日

今年も残り三分の一になりました。
皆さまお元気でお過ごしでしょうか?
今月も経営サポート隊通信をお送りいたします。

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

今月も先月に引き続き、プレジデントオンラインの記事からチョコレート・ブランド「メゾンカカオ」の創業社長、石原紳伍氏のインタビューをお届けします。

メゾンカカオは、ANA国際線ファーストクラスや即位の礼の各国首脳への機内手土産として採用されるなど、高い評価を受けています。石原紳伍氏は、学生時代はラグビー選手として活躍、大学卒業後に入社したリクルートでは営業成績の新記録を達成したという異色の経歴の持ち主です。(プレジデントオンライン 山田清機2025年5月23日)

リクルートに入社した石原氏は優秀な営業成績により幹部に注目され、社長直属の“寺子屋”で、徹底した幹部教育を受けることになりました。

『「いわゆる虎の穴(厳しい訓練を受ける場)のような組織ですが、課題として出された本を読み込んでレポートを書いたり、他のメンバーとディスカッションをしたりしながら、政治、経済、歴史、文学、宗教、哲学と、あらゆるジャンルのリベラルアーツを学ぶのです。時には社長と直接ディベートをすることもありました」

ラグビー漬けの青春時代を送ってきた石原さんは、猛烈な勢いでさまざまな分野の教養を吸収していった。だが、幹部教育を施したリクルートの幹部には、誤算があったのだ。いや、リクルート側の誤算というより、石原さんがあまりにもストレートに教養と向き合い過ぎたということかもしれない。「リクルートは素晴らしい会社だと思いますが、創業者である江副浩正さんの『自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ』という哲学を実践すると、リクルートという会社の枠をはみ出してしまう可能性があるのです。たとえば、当時、営業マンだった自分が抱えていたリスクに比べると、担当していた飲食業や旅館・ホテル業が抱えていたリスクはとても大きかったのですが、寺子屋でさまざまな本を読んで勉強すればするほど、これでいいんだろうか、自分の生き方は正しいのだろうかという疑問が強くなってしまったのです」

石原はさんはまさにリクルートの持つ哲学どおり、「(幹部教育という)機会によって自らを変え」てしまったのだ。退社したい旨を幹部に伝えると、猛烈な引き留めに遭った。それはそうだろう、前人未踏の新規開拓ギネスを持つ人材だ、おいそれと手放すわけにはいかない。1年限りという約束で別会社への移籍を許されて社長秘書の仕事を経験したあと、約束通りいったんはリクルートに戻ったが、自分が「世のため人のためになる仕事をしているのか?」という疑問はむしろ大きく膨らんでしまった。そして、半ばプライベートの旅で訪れたコロンビアで目にした風景が、退社の意志を後押しすることになった。

「コロンビアに行って、自分はビジネスをやりたいというよりも、文化をつくりたいんだということがはっきりとわかったのです。『経済は文化の僕である』(福武總一郎)という言葉がありますが、国際社会で日本という国が愛され生き残っていくためには、文化国家であることがとても大切な要素です。日本が世界からながく愛してもらえる国であることこそ、本当のサステナビリティーではないかと考えるようになったのです」リクルートの幹部たちも、最終的に石原さんの考え方を理解してくれた。28歳、破格の年収を投げ打って、石原さんはリクルートを退職する。

果たして、石原さんがコロンビアで見た風景とはいったいどのようなものか。そして石原さんの言う文化とは何か。そこに、ビジネスマンが自らの仕事を振り返り、生き方、働き方を変えるヒントがあるだろうか。』

“自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ”という言葉に従って、石原氏は自分の人生を切り開いていきます。この後のお話は来月号で紹介いたします。


Vol.164 2025年8月号

2025年08月01日

8月になりました。皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします。

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

今月もプレジデントオンラインの記事から、鎌倉に本社を構えるチョコレート・ブランド「メゾンカカオ」の創業社長、石原紳伍氏のインタビューをお届けします。

メゾンカカオは、ANA国際線ファーストクラスや即位の礼の各国首脳への機内手土産として採用されるなど、高い評価を受けています。石原紳伍氏は、学生時代はラグビー選手として活躍、大学卒業後に入社したリクルートでは営業成績の新記録を達成したという異色の経歴の持ち主です。(プレジデントオンライン 山田清機2025年5月23日)

『大阪に帰省して、これまでのラグビー生活を支えてくれた両親に学生コーチの件を報告すると、母親は石原さんの目の前で号泣した。父親は「チームが日本一になるために、あらゆることをやれ」と言ってくれた。その父の言葉で気持ちの切り替えがついてからは、誰よりも早くグラウンドに出て、誰よりも遅くグラウンドを去る日々を送るようになった。「ラグビーは自己犠牲を学ぶスポーツです。初代の学生コーチなので何をやっていいかわかりませんでしたが、日本一になるために自分はどんな役割を果たすべきかを考え抜きました」

早慶明に進学していた高校時代の仲間に頼み込んで練習を見学させてもらい、帝京に足りないメニューを洗い出した。そして、運動部にありがちな上下関係の弊害をなくすために、さまざまな改革を行っていった。背景にはもちろん、高校時代の不条理な師弟関係への疑問があった。「帝京の寮にも、上級生が食事をした後の片づけを下級生がやるといった不文律がありました。でも、チームが強くなるには下位チームが強くなって全体の底上げをしなくてはなりません。下位チームは、1年生と試合に出られなくなった4年生で構成されているので、1年生を雑用から解放して体作りができるようにすることと、試合に出られない4年生の気持ちが腐らないようにすることが重要でした。監督の言うことは聞かなくても、選手の道を諦め、学生コーチになった僕が言うことには、みんなが耳を傾けてくれました」当時の帝京はまだ「夜明け前だった」が、石原さんの1学年下には堀江翔太がいて、全国大学選手権で準々優勝、堀江の下の学年が準優勝、その翌年、石原さんが4年生だったときの1年生たちが悲願の初優勝を飾り、そこから破竹の9連覇を成し遂げる。石原さんがその礎をつくったと言っても過言ではないだろう。

ラグビーを通して学んだことは、石原さんの組織作りの基本になっているという。

「華やかなスタープレーヤーの時代も、怪我で試合に出られない時代も経験したことによって、常に、チームのために何ができるかを考えるようになれました。あくまでもチーム全員が主役であることが大事なので、ブランドを立ち上げる際にも、当時は定番でもあった自分の名前をブランド名につけるという考えが僕にはなく、ca ca oと素材への思いをシンプルにつけました」

大学卒業後、石原さんはある人物の紹介でリクルートに入社する。紹介してくれた理由は「君、目がいいから」であった。

石原さんはリクルートでも、前人未踏の記録を打ち立てることになる。石原さんが入社するまで、リクルートの新規顧客開拓数の社内ギネスは数百件/年だった。ところが石原さんは、入社してわずか10カ月あまりで1700件という驚異的な記録を樹立してしまったのである。まさに超人的な営業成績と言っていい。なぜ、こんなことが可能だったのだろうか。

「広告営業を担当していたのですが、ラグビーの経験があったので努力をすることはまったく苦ではありませんでした。でも、勝ち負けを決めるスポーツと違って、仕事は勝ちと勝ちじゃないと成り立ちません。ですから、広告を使って経営課題を解決してあげましょうというアプローチではなく、常に、どうすればお客様と一緒にワクワクしながら同じ夢を見られるかを考えながら営業をしたのです」20代後半にして、年収は数千万円を突破。石原さんの活躍は当然、リクルート幹部の知るところとなり、社長直属の“寺子屋”で、徹底した幹部教育を受けることになった。』

この社長直属の寺子屋で石原氏の人生は大きく変わることになります。来月も引き続きメゾンカカオ創業の経緯をお届けいたします。


Vol.163 2025年7月号

2025年07月01日

皆さまお元気でお過ごしでしょうか?
今年も後半に入りました。時のたつのは本当に早いですね。
それでは、今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします!

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】

今月はプレジデントオンラインの記事から、鎌倉に本社を構えるチョコレート・ブランド「メゾンカカオ」の創業社長、石原紳伍氏のインタビューをお届けします。

メゾンカカオは、ANA国際線ファーストクラスや即位の礼の各国首脳への機内手土産として採用されるなど、高い評価を受けています。石原紳伍氏は、学生時代はラグビー選手として活躍、大学卒業後に入社したリクルートでは営業成績の新記録を達成したという異色の経歴の持ち主です。(プレジデントオンライン 山田清機2025年5月23日)

『2025年2月14日、神奈川県茅ヶ崎市のすべての市立小中学校と県立茅ヶ崎支援学校の生徒および教職員、名古屋市立の全小学校・全特別支援学校小学部の生徒に、花の形をした個包装のチョコレートがひとつずつ配られた。総数、12万9800個。配布したのは、茅ヶ崎市今宿に工場を構える「メゾンカカオ」というチョコレート・ブランドである。プレゼントされたチョコレートは植物性素材のオーツミルクを使ったヴィーガンチョコレートで、地球環境の保全などを訴えるメゾンカカオの社長の熱いメッセージが添えられていた。ANAのファーストクラスで提供されたり、G20大阪サミットや即位の礼の土産物に選ばれるなど、華々しい実績を誇るメゾンカカオの社長は、石原紳伍さん(40歳)という。高校時代にラグビーの花形選手として活躍した、異色の経歴の持ち主だ。

大阪生まれの石原さんの実家は、牛のホルモンを中心とした串焼き屋を経営していた。店は毎日深夜の3時、4時まで営業しており、弟とふたり、両親の仕事が終わるまで店の奥の休憩室で眠り、店が終わると両親と一緒に二階に上がって布団に横になるという生活を送った。文字通りの職住一致。両親が働く姿と客の笑い声が、幼少期の「色の濃い」思い出だという。「実家の近くには鉄工場が多くて、小学校まで通う通りはいつも油が焦げた匂いがしました。ものづくりが、とても身近にある環境でしたね」中学からラグビーに打ち込み、高校は推薦でラグビーの強豪校に入学。1年生でレギュラーの座を射止め、自他ともに認めるスター選手となった。だが、強豪校のラグビー部の日常は苛烈を極めた。練習の厳しさもさることながら、先輩後輩の上下関係がとても厳しかった。「僕がいた当時の話ですが、3年生にひとり、2年生にもひとり『師匠』がいて、練習が終わると、そのふたりがドロドロに汚したユニフォームから下着からスパイクから、すべてを洗濯しなければなりませんでした。師匠がシャワーを浴びている間はバスタオルを持ってシャワールームの中で待機するんです。師匠が飲むドリンクもそれぞれ5リットルずつ、毎日用意しなければなりませんでした……」これ以外にも不条理なしきたりがあり、1年生はグラウンドで練習が始まる頃にはヘトヘトになってしまう。それが遠因にもなって、石原さんは高校2年のときに大怪我をして試合に出られなくなってしまった。「大学ラグビーのスカウトマンは高2の実績を評価するのですが、僕には高2の実績がなかったので、当時の強豪校だった早慶明からは声がかかりませんでした」唯一、声をかけてくれたのが新興勢力の帝京大学だった。1年生時代の実績を評価して石原さんを「拾ってくれた」のだ。大学に入っても、高2の怪我の影響は長く尾を引いた。かつてはグラウンドの空間を手に取るように把握できたが、怪我に対する恐怖心によって、空間把握の感覚を完全に失っていた。それでもなんとかレギュラーになり、複数あるチームの中の上位チームでプレーできるまでに回復した。だが、満を持して最終学年のシーズンに臨もうというとき、思いがけない出来事が降りかかってきた。

「新4年生の中から学生コーチをひとり出すことになったから、全員が学生コーチになってもいいという覚悟ができたら、新4年生全員で監督のところへ来いというのです」学生コーチになるということは、試合には出ないことを意味する。つまり、現役のプレーヤーではなくなるということだ。必然的に、ラグビーで実業団に就職する道も断たれることになる。初代の学生コーチに就任することは名誉なことでもあったが、ラグビーに命をかけてきた以上、誰だって試合に出たい。進んでコーチになりたがる部員はいなかった。「新4年生が全員集まって、毎晩2時間近く話し合いました。お前はレギュラーになる見込みはないんだからお前がコーチをやれとか、ケンカごしの議論を続けましたが、期限が来てしまったので仕方なく全員で監督のところへ行ったんです。そうしたら、石原が初代の学生コーチになれと」来月は石原氏がリクルートを退社してメゾンカカオを創業するに至った経緯をお届けいたします。


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