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経営サポート隊通信
経営サポート隊通信

Vol.119 2021年11月号

2021年11月01日

今年も残り2ヶ月となりました。
今月も経営サポート隊通信を元気にお届けいたします!

【河合由紀子のちょっとイイ話】
今月は日経ビジネスオンラインの記事から、AI翻訳機「ポケトーク」などで知られる
東証一部上場のソースネクスト会長松田憲幸氏のインタビュー記事を一部ご紹介したいと思います。
『―2012年に米シリコンバレーに移住して9年。そんな松田さんの目に、コロナ下の日本と米国の違いはどう映りますか。
松田:コロナ前も今も、アメリカ人は楽観的で笑顔が多い。日本に帰るとコロナの状況が永遠に良くならないのではないかと感じられるくらい、暗いニュースばかりが流れている。だから私は、日本の家にテレビは置いていません。アメリカの株価が上がり続けているのも、「今よりもっといい未来が来る」とみんなが考えているからです。アメリカにいると、何でも実現できるような気がしてくる。私がアメリカに来て、一番学んだのはその精神です。周りの普通の人がどんどん成功していくのを見ていると、自分もできるんじゃないかと思えてくるのです。
―なぜ違うのでしょう。
松田:子供の教育では、日本人はみんなと同じにするのがいいという考え方を大切にしますが、アメリカ人はいかに他者と差異化するかという考え方を教えます。「なぜあなたはこれができないの」と追及はしない。それぞれが、それぞれの夢を持っている。大きな夢を公言してもばかにされません。「(フェイスブック創業者の)マーク・ザッカーバーグみたいになる」とアメリカ人は平気で言いますが、日本でそんなことを言ったら「無理に決まっているじゃないか」と笑われるでしょう。また、米国人は「Congratulations(コングラチュレーション)」という言葉をよく使います。例えば初対面の人にソースネクストの事業の変遷を説明すると、「IPO(新規株式公開)おめでとう」と言われる。日本ではIPOをした直後なら「上場おめでとう」と言うけれど、10年以上も前のIPOのことを今さらたたえないですよね。でも、アメリカでは称賛される。「Congratulations」の裏には、「いずれ自分もそうなってみせます」という気持ちが確実にありますね。アメリカは広いので一概にはくくれませんが、ここシリコンバレーでは、物事に限界はないとみんなが思っています。
―松田さんも限界を取り外すことができましたか。
松田:ええ。やはり、身近な会社がどんどん大きくなりますからね。料理の宅配を手がけるドアダッシュの創業者トニー・シューと知り合った13年、彼は自分で配達もしていました。私の家に配達に来ると、必ず後で「今日利用してみて、どう思う?」とメールが来る。「日本食レストランがないよね」と言うと、いつの間にかちゃんと入っている。そんなやり取りをしているうち、あれよあれよという間に何千店、何万店の飲食店と提携し、昨年株式上場して時価総額が6兆円にもなりました。そんな例が山ほどあります。その辺を歩いている人がいきなり1兆円企業をつくってしまうのですから、ソースネクストも、せめて1000億円企業になってもおかしくない。そう思えるようになって17年12月にAI通訳機「ポケトーク」を発売したら、時価総額が1000億円を突破した。「俺にもできるんじゃないか」と思うことはやはりすごく重要ですよね。』
ポケトークは数年前にある社長様からご紹介いただき、実際に使ってみたこともあります。驚いたのは、オンラインで使うための通信費用が2年間無料で使えるようになっていることです。これはWi-Fiに繋いだりスマホにデザリングする必要がなく、海外にそれだけ持って行っても使えるということです。定額の支払いが発生すれば、試してみることを躊躇する人も多いのではないかと思うのですが、その障壁をなくすことにより手軽に始められ、その良さがわかってもらえれば継続して使ってもらえるというのが狙いだと思います。翻訳機能は素晴らしく、さすがにコテコテの関西弁は翻訳してくれませんが、それは人間の通訳でも同じことだと思いますので、かなりの精度だと感じました。インタビューの中で松田氏が答えているように、アメリカでは、できないことよりもできること、悪い面より良い面にフォーカスを当てる人が多いように思います。それは社会全体の空気や小さなころからそのような教育を受けているからだと感じます。メリットもデメリットもあるとは思いますが、イノベーションを起こすには良い風土だと思います。


Vol.118 2021年10月号

2021年10月01日

10月の声を聞くともう今年も残りわずかですね。
今月も経営サポート隊通信を元気にお届けいたします!

【河合由紀子のちょっとイイ話】
コロナ禍の中、飲食業、観光業、小売業等、人と接触する業種の苦戦が続いていますが、『Amazonの百貨店進出計画、そのシナリオと勝算は』という記事を日経電子版(日経クロストレンド)で見つけましたので、ご紹介したいと思います。(抜粋・編集)
『「アマゾンが百貨店のような大規模小売店を計画している」米ウォール・ストリート・ジャーナルは2021年8月19日、こうした見出しで、この件に詳しい複数の関係者の話として第一報を報じた。最初の店舗は西海岸のカリフォルニア州か中西部のオハイオ州が有力。想定される床面積は3万平方フィートと、10万平方フィート程度が一般的な百貨店よりは狭めだという。ノードストロームなどの百貨店大手はショッピングモールなどで小型店も展開しており、そうした店舗と競合するとみられている。また、ウォルマートやターゲットなどの総合スーパーとは規模が同等で、衣料品や家電などで競合する可能性がありそうだ。
アマゾンの今回の動きには3つの疑問がある。まず、なぜ今百貨店というリアル店舗かという点だ。米国では新型コロナウイルスの感染拡大によって、小売業が都市部で店舗を撤退させている動きが目立つ。実際には、感染拡大の前の19年後半から大型小売店の景況が悪くなっており、そこにコロナ禍が直撃した格好だ。小売店のなかでも、特に百貨店や大規模なアパレルがこの2~3年、相次いで破綻している。アマゾンの猛攻に陥落したといわれるが、各社の企業努力が足りなかった面もある。皮肉にも、都市部の一等地の店舗がこれまでになく確保しやすくなっている。
2つ目の疑問は、アマゾンはいったい何を売ろうとしているのかだ。やはりアマゾンがネット販売で駆逐した、アパレルを販売するのだろう。特に高級品がターゲットとみられる。ウォール・ストリート・ジャーナルは、アマゾンが2年前にアパレルブランドにアプローチしていると報じている。高級アパレルは、店員によるコーディネートの助言、サイズの調整などが必要な商材である。アマゾンはAIカメラによるコーディネートの提案サービスを提供していたが、20年に終了。アマゾンのアプリでモデルの写真などから似た洋服を探す機能などを引き続き提供している。ただ顧客の要求水準が高い高級アパレルの需要を刈り取れないでいるのだろう。またアマゾンは既に、ECで顧客の評価が4つ星以上の商品を集めた「Amazon 4-star」のリアル店舗を、米国内で約30店舗展開している。さらに5店舗が開店予定だ。今後進出が予想される百貨店には高評価の商品の中でも、家電など「体験」が必要なものについて陳列していく可能性が高い。それ自体、店舗の集客にプラスに働く。米国では21年に入って、大手家電量販店のフライズ・エレクトロニクスが全店舗を閉鎖するなど、家電の実物を見て触ることができる場所が減っている。衣料品や服飾品、家電以外に、靴、スポーツ用品、キャンプ用品などが考えられる。最近ネットで力を入れている自動車のリアル販売も可能性がある。
最後の疑問として、既存サービスや商材との連携はあるのかであるが、本業であるECのサービス拠点としての機能が考えられる。20年にカリフォルニア州のロサンゼルスなどで展開を始めた大型生鮮食料品スーパー「Amazon Fresh」を見れば一目瞭然だ。21年3月に、ロサンゼルス近郊のロングビーチ市に開店したAmazon Freshの店舗は、ショッピングセンター内の一角にある。床面積は約4万平方フィートと比較的広い。会員制スーパーのコストコの半分から3分の1の床面積だ。同店の入り口右側には、サービスカウンターがあり、アマゾンのECで購入した商品を返品することができる。ここまで持ってくれば、返品にかかる送料や手数料は基本的に無料だ。また、商品をピックアップすることもできる。ECを利用している顧客が立ち寄って、食料品や生活必需品をついで買いすることも多いだろう。
アマゾンが百貨店で狙うとみられる高級アパレルの市場。生き残っているノードストロームやメーシーズなどの百貨店にとっては無視できない動きだ。ターゲットのように生鮮食料品がメインでない大型スーパーも同様だ。アパレルなどの高級ブランドはアマゾンとどう付き合っていくのか、難しい判断が求められる。』
Amazonは、対面して商品を売るという一見従来の小売業と同じことを始めようとしているように見えて、発想の起点が違うことにより、考え方や仕組みが全く異なる新しい小売業を作ろうとしていると感じました。皆さんはどうお感じになりますか?


Vol.117 2021年9月号

2021年09月01日

暑い日が続きますが
皆様お元気でお過ごしでしょうか。
今月も経営サポート隊通信を元気にお届けいたします!

【河合由紀子のちょっとイイ話】
今月は「2050年の技術~英『エコノミスト』誌は予測する~」(2017年文藝春秋)の中の『働き方は創意を必要とされるようになる』という章の中から抜粋したいと思います。
「雇用のあり方を変えつつある機械は、個人や社会と無関係に生まれる中立的ツールではない。その設計や使用法は、機械そのものが雇用や社会に及ぼす影響のみならず、われわれがどのような働き方を選択したかの表れである。設計と仕様の相互関係は、人間が貴重な時間を節約するために作った機械の進歩を見るとよくわかる。1960年代から70年代にかけては家電(洗濯機、乾燥機、掃除機)などの登場によりそれまで家事労働に縛られていた女性たちに労働市場に加わる時間的余裕が生まれた。もっと最近の例では、スマートフォンに埋め込まれたテクノロジーは他者との交流を持ちやすく、仕事を効率化しやすく、私生活を楽に管理できるように設計されている。その土台にあるのは、こうしたテクノロジーによって生まれた時間的余裕を、創造力、好奇心、イノベーションのような人間固有の時間と集中力を要する貴重な能力を発揮するのに振り向けられるという考えだ。
コンピューターによって、かつては人的資本集約的であったさまざまな作業にかかる時間が減ったのはまちがいない。(中略)しかしここには矛盾がある。たいていのコンピューターはたしかに人間に時間という贈り物を与えてくれる。だがそれと同時に、創造や深い思考といったきわめて重要な人間的活動の時間を奪っているのも事実だ。ユビキタスなテクノロジー、とりわけインスタント・メッセージや通知機能の発達によって、深刻な「テクノロジー過多」の状態が生まれている。働き手は絶え間なく送られてくる情報によって頻繫に仕事を中断され(自ら中断しているとも言える)、それによって注意力を削がれ、自らの知的資源を浪費している。要するに、落ち着いて創造的思考にふける時間が生まれるどころか、われわれの脳は貴重な情報のフリをした事実、虚偽の事実、噂などの奔流にかつてないほど振り回されているのだ。現代人の生活習慣の研究では、平均的な働き手は1日150回以上携帯電話を確認し、インスタント・メッセージやツイートなどの通知に10.5秒に1回の割合で作業を中断させられている。こうしたソーシャル・メディアのユーザーが、作業が中断するたびに集中力を取り戻すまでにかかっている時間は平均23分である。」この後本文は“意思決定を担うのはAIか人間か”という議論に移っていきます。
今回取り上げた部分で特に興味深かったのは、“機械は人間が貴重な時間を節約するために作られた”一方で“テクノロジー過多により仕事を中断され時間を浪費している”という部分です。意識的に時間を浪費しないような工夫をして、テクノロジーに翻弄されないようにしなければ、あっという間に時間はなくなってしまいますね。


Vol.116 2021年8月号

2021年08月02日

暑い日が続きますが
皆様お元気でお過ごしでしょうか。
今月も経営サポート隊通信を元気にお届けいたします!

【河合由紀子のちょっとイイ話】
今月も島精機製作所創業者の島正博氏のインタビュー記事をお届けします。5月から掲載してきましたが、今月が最終回。今回は、オイルショックによる不況を乗り越えた際のお話です。(日経ビジネスオンライン 2020.12.4 「島精機・島正博氏(3)同志の死を乗り越えて下した決断」より)

『死ぬことも覚悟しながら全自動手袋編み機の開発に成功してから10年がたった1974年、私はまたもや絶体絶命の事態に追い込まれていました。前年に起きたオイルショックに端を発した不況の波が、遅まきながら繊維業界にも押し寄せてきたのです。年明け早々から、編み機の注文キャンセルの嵐です。納品済みだった機械が次々と工場に戻ってきました。
編み機を開発してからの島精機製作所は順調でした。売り上げは前年度比1.5倍ぐらいのペースで伸び、足元では年商36億円にまで達していました。それが一気に暗転したのです。新たな発注はまったくと言っていいほどありません。機械整備や掃除ぐらいしか仕事がなくなり、夏ごろには運転資金にも窮するようになります。
そんな中で9月、創業からの付き合いだった後藤武治専務が、社内で自ら命を絶ちました。後藤専務は10年前、背水の陣で全自動手袋編み機の開発に臨んだときに「失敗したら2人で列車に飛び込もう」と一緒に生命保険にまで入った、かけがえのない同志です。あまりのことに声を失いました。国内営業や資金調達といった対外業務を取り仕切っていた後藤専務の訃報を、NHKは夕方から夜にかけての全国ニュースでセンセーショナルに報じました。
あまりに受け入れがたいことだったせいか、どこか現実感がないままでした。それが翌朝、会社の前に来たときに一気に現実に引き戻されました。債権者が列をなしていたのです。当時の島精機は、横編み機市場でのシェアが5割を超えていました。万が一のことがあった場合の影響を重く見た通商産業省の指示で、商工中金が3億円の緊急融資枠を設定してくれていたのですが、騒ぎは収まりません。「会社は大丈夫なんか。大丈夫やったらうちの手形を先に買い戻せ」と債権者たちは矢のように催促してきました。後藤専務の死を受け入れる時間すら与えてもらえませんでした。
それから迎えた最初の代金支払日である9月20日、債権者数十人に社員食堂へ集まってもらいました。業績の現状と今後の見通しを説明し、経営には問題がないと懸命に訴えました。ところが会場には罵声が飛び交い、債権者は手形の即時決済を迫ります。「島精機さんの支払いは三和銀行が全面的に保証します。信用できない方には今すぐ小切手を切りますから申し出てください」。その場を鎮めてくれたのは当時のメインバンク、三和銀行南和歌山支店長の奥田久男さんでした。債権者向け説明会に先立って話し合ったところ、奥田さんは「これからもニット需要はあり、自動化に優れた編み機は売れるはずだ」と支援を約束してくれていたのです。「つらいのはみんな一緒や。ともに頑張ろう」。どこからかそんな声が上がり、怒号が渦巻いていた社員食堂が静かになりました。説明会は小一時間で終わり、債権者のほとんどは手形をそのまま持ち帰ってくれました。
首の皮一枚つながったものの、不況で製品が売れず、大量の在庫を抱える状況に変わりはありません。一部の商社や借入先は人員整理を提案してきました。当時の従業員は300人ほど。同業他社が半分に減らしているから、島精機も半分に削減しろというのです。三日三晩、寝ないで考えに考え抜きました。下した決断は、最新鋭のNC装置の採用でした。「本気で言ってるのか?」。人員削減を提案されたのに新規投資を決めたことに商社や借入先はもちろん、社内も驚いていました。「これからは個別のニーズに合わせた多品種少量生産の時代。コンピューター制御の横編み機を作れば世界中で売れる。つまり、従業員を減らさなくても済む」。私はこう考えたのです。確かに初期投資はかかりますが、不況で工作機械メーカーが在庫を抱えている今ならNC装置を大幅に値切って買える。クモの巣の教えに倣って原点に立ち返り、発想を180度転換したわけです。XYZの3軸で機械を制御する装置を扱うには数学が必須です。受注がない分、勉強に充てる時間はいくらでもある。「三角関数を勉強せえ」。社員にハッパを掛けました。良いこともありました。70年代に入ってから労使関係が悪化していたのですが、人員削減を見送ったことで互いの信頼につながり、関係が改善したのです。
後から振り返れば、オイルショックは時代の転換点でした。大量生産・大量消費が当たり前だったのが、ニット業者の間でも消費者のニーズに応じた個性的な商品づくりを目指す機運が高まったのです。逆風の中で開発に着手した「コンピューター制御横編み機(SNC)」を発表したのは78年。欧州の先発メーカーの半額で性能は2倍ということもあり、大ヒットになりました。64年に続く74年の経営危機は、こうして何とか乗り越えることができました。この後も、私は10年おきぐらいに危機に見舞われます。竹に節があるように、危機はいつも次の成長につながる大きな節目になりました。考えてみてください。節がない竹なんて簡単に折れてしまうでしょう。
このころ、次の発明につながる大きな発見もありました。76年に鋳物の仕入れ先工場を見学したときのことです。この工場で手掛けていた印刷機械から出てきた写真をルーペでのぞき込んで驚きました。目に飛び込んできたのは「色の三原色」の細かい網点の集まり。「これや、これ!」。全身に衝撃が走り、頭の中が発想でいっぱいになりました。編み物は「ニット」「タック」「ミス」の3種類の編成方法を組み合わせます。印刷の三原色の仕組みを取り入れればデザインの質と幅が一気に広がるとひらめいたのです。私を探し回る社員の大声で我に返った時には、2時間半もたっていました。』

いかがでしたでしょうか?いつの時代にも不況はありますが、その時どのような考え方をし、どのように決断し、どのように行動するかによって未来が変わるのだと、つくづく感じました。
現在、新型コロナウイルスの影響により、世界的に先が見えない状況にあります。ワクチンの接種が進み、以前のような生活が戻ったとしても、以前のようには戻れない、あるいは戻らない事柄も多数あるように思います。島氏がオイルショックについて言われているように、今はまさに時代の転換点なのだと思います。危機を竹の節のように自らを強くする機会とできるかどうか、それは今にかかっています。今と未来を生きるために、竹のように強くしなやかに考え、決断し、行動していきたいと感じました。


Vol.115 2021年7月号

2021年07月02日

皆様お元気でお過ごしでしょうか。
今月も経営サポート隊通信を元気にお届けいたします!

【河合由紀子のちょっとイイ話】
5月から掲載している島精機製作所創業者の島正博氏のインタビュー記事が好評をいただいていますので、今月も続きを掲載したいと思います。(日経ビジネスオンライン 2020.11.27 「島精機・島正博氏(2)9歳の夜にクモの巣がくれたヒント」より)
『終戦から遡ること1カ月余り。1945年7月9日、和歌山は大規模な空襲に見舞われました。8歳だった私は家族と一緒に、自宅の裏山にあったお寺の墓地に避難しました。何とか逃げ切って自宅の方を振り返ると、焼夷(しょうい)弾が家に直撃して火の手が上がるのが見えました。墓地から見えた、和歌山城の天守閣が炎上して夜空を赤々と染めている光景を忘れることはないでしょう。多くの死傷者を出したこの空襲で和歌山は市街地の43%が焦土と化しました。朝を迎えると、辺り一面は焼け野原です。父は南方に出征したまま音沙汰なしで、安否も分かりません。後に終戦から3年がたってようやく戦死通知が届いたのですが、一緒に届いた白木の箱に入っていたのは「島武夫」と書かれた木片だけでした。「自分が大黒柱として家族を支えないといけない」。まだ幼い少年でしたが、焦土を前にしてこう強く思いました。まずは住むところをどうにかしなければなりません。ところが、バラックを建てようにも資材なんてどこにもない。焼けたトタンを拾ってきて屋根をふき、墓地にある角形の立派な卒塔婆を引き抜いて柱にしました。「すんません。こんな時なので堪忍してください」。手を合わせて12本ほど拝借しました。
住むところが確保できたら、次は食べ物です。とにかくおなかがすいて、毎日ふらふら。お金がないので、自分でつくるしかありませんでした。がれきを取り除きながら耕して、1年をかけて家の周りの100坪ほどを畑にしました。カボチャ、サツマイモ、ナス、キュウリ、トマト……。家族ではとても食べきれないぐらい。近所にお裾分けをしたり、物々交換をしたりしていましたが、そのうち天ぷらにして売ることを思いつきました。ただ、物資不足で油が手に入りません。闇市に出かけて天ぷら屋台のおじさんに分けてもらえないかと頼んでみました。「商売敵を増やすようなことできるか」と、最初はにべもありませんでしたが、父が帰らないことを打ち明けると、気前よく一升瓶を持たせてくれました。油は一級品で、海でとってきたキスやエビ、畑でとれた野菜でつくった天ぷらは飛ぶように売れました。
家族で食っていくために、できることは何でもしました。野菜くずとサザエの殻を混ぜたもので鶏を育てて卵を産ませる。空気銃で撃った野鳥や池で釣った食用ガエルを現金に換える。炭俵に細工をしたわなを川の貯木場に沈めてウナギを捕る。とにかく生きていくのに必死でした。祖父も戦後まもなく亡くなりました。祖母と母と妹を抱えて、ゼロから生活を立て直していく中で培ったハングリー精神と、生き抜くために日々繰り返した創意工夫。それが私の原点です。
9歳のころ、家族が当時大流行していた腸チフスで入院し、数日間を1人で過ごしたことがあります。「南無阿弥陀仏」と書かれた柱の立つバラックの家にはラジオもありません。夜になるとすることもないので、窓に張ったクモの巣を観察していました。クモは巣の真ん中に陣取り、ハエや蚊のような獲物がかかると素早く捕獲してまた真ん中に戻る。真ん中にいると全方位が見渡せるし、いつも獲物に対して至近距離で迫れる。カマをかけて端に構えて、裏をかかれるようなことはないわけです。クモは賢いなと。これがその後の人生のヒントになりました。行き詰まったときには一度ご破算にして、原点に立ち返る。そうすれば全方位で進路を考え直せます。積み上げたものを捨てるのは勇気が要りますが、後退することによって、これまでと反対の道を選ぶこともできる。全自動手袋編み機の時もそうでした。指先を丸く編む機能を棚上げして再挑戦したわけです。これまでの延長線上でしか考えないのでは進歩は望めません。』

この後オイルショックの際の危機へと話は続きます。次回をお楽しみに。


Vol.114 2021年6月号

2021年06月01日

皆様お元気でお過ごしでしょうか。
今月も経営サポート隊通信を
元気にお届けいたします!

【河合由紀子のちょっとイイ話】
今月も先月に引き続き、島精機製作所創業者の島正博のインタビュー記事の続きをお届けしたいと思います。
『初期型は手袋の指先を丸く編む機械でしたが、ひとまずは性能を落として指先を角形に編む方式に変更して再挑戦することにしました。ただし、懐は火の車です。資本金100万円に対し借り入れは6000万円。赤字額は300万円。さらに1カ月後の12月25日には60万円の手形の決済が迫っています。「島精機は潰れるで」と地元ではうわさが飛び交い、株主の一部は資金を引き揚げ、地元銀行は融資をストップ。妻・和代の通帳から無断で全額を引き出して、職人たちの給料の支払いに充てたほどです。なんとかしのいできましたが、もう打つ手はありません。和代からは「家に一銭も入れていない」と詰め寄られ、銀行からは「預金不足で電話代や電気代が引き落とせない」と矢のような催促がありました。
まさに背水の陣で、12月2日に新型の編み機の開発を始めました。「たんかを切った以上は何が何でもやり遂げる。そのためには寝ないようにしたらいいだけやんか」。そんな気持ちでした。12月に寝たのは22時間だけ。意識がもうろうとして機械に手を挟まれ、病院に運ばれるアクシデントもありました。それでも時間は足りません。紙に図面を起こしていては到底間に合わないので、私が8人の職人に直接、口頭で指示をしながら開発を進めました。数字が4桁になってしまうと、とても頭で覚えきれません。寸法をすべて偶数にすることで桁数を減らしました。編み機の性能を落としたのだから3週間もあれば完成すると踏んでいましたが、時間ばかりが過ぎていきます。焦りが募るなか、相棒の後藤武治専務は「死亡保障の生命保険に加入しておくべきや」と提案してきました。私が1500万円、専務が500万円、2人で2000万円の保険に入って、借り入れの返済原資にすることにしました。いざとなったら、会社のすぐそばを走る国鉄の列車に飛び込もうという覚悟です。編み機は完成せず、資金繰りのめども立たないまま、とうとう手形決済の前日を迎えます。「もう列車に飛び込むしかないか」。ぼんやりとそんなことを考えながら開発を続けていると、夕方に風呂敷包みを持った見知らぬ男性が会社に私を訪ねてきました。「決済に間に合うよう金を持ってきたで。領収書も何も要らん。返済は金ができてからでええから頑張りなさい」夢か現実か、私はあっけにとられました。受け取った風呂敷包みの中には100万円の現金が入っていました。あの重みは忘れることができません。男性の正体は大阪で上硲金属工業を経営する上硲俊雄社長でした。このクリスマスイブの奇跡をお膳立てしてくれたのは、和歌山県の仮谷志良経済部長。のちに和歌山県知事になる仮谷さんは、早くから私の技術力に注目してくれていたそうで、私の窮状を聞きつけて部下にスポンサー探しを指示していたのです。
九死に一生を得た私はこの日から1週間、ほぼ一睡もせずに開発に没頭しました。座ると眠くなるので食事は立ったまま。当時出回り始めた大正製薬の栄養剤「リポビタンD」を水代わりにして作業を進めました。大みそかを迎えてようやく試作機ができあがりました。想定では、スイッチを押してから2分15秒で手袋が編み出されるはずです。白浜行きの列車が和歌山駅を出発する午後3時ちょうどにスイッチを押しました。もし手袋が出てこなかったら、会社の近くにある警報機のない踏切からその列車に飛び込むつもりでした。生きるか死ぬか。命をかけてスイッチを押すと、機械は軽快な音を立てて動き出しました。2分15秒があんなに長く感じられたことはありません。時間通りに、指先から手首まで一気に編み上げられた手袋が出てきました。「ああ、死なずに済んだ」。やれることをすべてやりきっただけに、うれしさもひとしおでした。こうして島精機と私たちは最大のピンチを乗り越えたのです。私を支えたのは絶対にあきらめないというハングリー精神と、創造への熱い情熱です。それは、空襲を受けて焼け野原になった和歌山のまちで培ったものでした。


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