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今月の金言
今月の金言

2023年5月の金言

2023年05月01日


Vol.137 2023年5月号

2023年05月01日

爽やかな風の心地よい季節になりました。
みなさんお元気でお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします。

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】(日経ビジネスオンライン2023.3.2)

今月も3月号より掲載してきた「エアウィーヴ」の開発で知られる高岡本州氏のお話のつづきです。

『2007年6月ベッドや布団の上に敷くマットレスパッド「エアウィーヴ」を発売しました。薄く軽いパッドから始めた理由は売り場で扱ってもらいやすいため。物流が容易であることも理由の一つでした。(中略)売上高が数十億円規模になれば事業が軌道に乗ると思いましたが、簡単ではなかった。家具店は既存業者が売り場を囲っており、パッドですら売り場を確保できないのです。1週間で1枚売れれば御の字という状況が続きました。「体験すれば良さが分かる」。そう考えた私は、約200人の友人・知人に無料で商品を配りました。狙いは当たり、一晩使っただけで「すごくいい」と褒めてくれる人たちが出てきた。共通点は「スポーツマン」。体調に敏感な人々の評判が良かった。彼らの評価は私に自信を与えてくれました。覚えているのは、あるご夫婦の言葉です。スポーツマンのご主人は使った翌日に「これはいい」と連絡をくれた。奥さんは当初「よく分からない」との反応でした。しかし1週間後、奥さんも「週末に長時間使ったときに寝疲れしていなかった」と言ってくれたのです。「どんな人も1週間使えば良さが分かる」と思いました。半面、この結果は売り場で試すだけでは良さを伝えるのが難しいことを意味します。私は販売戦略を練り直しました。当時の寝具はプッシュ型の販売が主体。見込み客には値引きでプッシュした。(中略)

父から引き継いだ日本高圧電気では品質を強みにしていた。だからこそ、従来の寝具の販売手法と一線を引きたかった。そのヒントをとある米国出張で得ました。米ハーバードビジネススクールでブランディングなどを教えるジョン・デイトン教授と話す機会を得たのです。デイトン教授は「寝具を買う場合、店頭で実際に触れて次に価格が想定内かを見る。ブランドは最後に見るが、知らないブランドは買わない」と教えてくれました。最後にはブランドがモノをいう以上、「ブランド認知を高め、顧客から指名してもらうプル型のマーケティングでいこう」と決心しました。ディスカウントしない売り場を探し、たどり着いたのが百貨店と当時の東急ハンズです。名古屋、東京でアプローチし、足しげく通いました。一方、ブランドづくりの入り口はアスリート。身体の変化に敏感なトップアスリートに選ばれる寝具を目指しました。ターゲットは五輪選手。縁をたどって(中略)競泳の古橋廣之進さんと出会い、国立スポーツ科学センターを紹介してもらいました。宿泊施設で実際に使ってもらい、選手たちからは好評を得ました。選手たちから「五輪に持っていきたい」という声が出たことで、丸めて持ち運べるバッグ入りタイプを開発。08年開催の北京五輪では約70人の選手がエアウィーヴを持ち込みました。その一人が競泳の北島康介選手。彼は金メダルを獲得しました。「エアウィーヴも話題になる」と確信し、生産強化を指示しました。でも、思惑通りいかなかった。話題になっても、実際に売れるのは週に1〜2枚程度でした。低空飛行が続く中、日本高圧電気から事業資金を借りて食いつなぎました。年間3000万円だった資金援助は、やがて1億円に増加。09年5月の役員会では、とうとう父が融資を反対しました。(中略)私は腹を決め、日本高圧電気から資金の融通を停止してもらい、自分で金融機関から資金調達しました。そして会社を個人で買い取り、自らのリスクで勝負に出たのです。個人の借り入れは一時、10億円近くになったと思います。

10年のバンクーバー五輪が近づく頃、「五輪選手のサポートにマーケティング的な意味があるのか」と悩みました。それでも北京五輪で少なからず選手を支えた経験を思い出し、再チャレンジに臨んだのです。(中略)一般にも広く知ってもらうため、10年は人気宿泊施設である石川県七尾市の加賀屋に、14年には日本航空のファーストクラスに導入してもらいました。

認知度が少しずつ向上し、思い描いた売り場が確保でき始めたのがこの頃です。東急ハンズと高島屋で導入してもらい、他の百貨店も続きました。一気に大きな売り場が獲得できたわけではありません。1棚を2棚に、そこから少しずつスペースを拡大してもらう繰り返しでした。続けるうちに次第に注文が増え工場が忙しくなりました。11年には追い風が吹きます。フィギュアスケートの浅田真央選手が大会にエアウィーヴを持参し、忘れないよう手の甲に「マットレス」と書いた映像がメディアで流れたのです。浅田選手という光によってエアウィーヴのブランド認知度が急激に向上した。その後、浅田選手にはブランドアンバサダーに就任してもらいました。』

自らリスクを引き受け、販売戦略の仮説を立てて粘り強く突き進んでいく高岡氏。このシリーズにはまだ続きがありますので、ご興味のある方は『日経ビジネスオンライン 不屈の路程』で検索してみてください。


2023年4月の金言

2023年04月01日


Vol.136 2023年4月号

2023年04月01日

4月は新年度のはじまりですね。
暖かい春の陽気とともに、            
新しいことに挑戦するのによい季節ですね。
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします。

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】(日経ビジネスオンライン2023.2.24)

今月も先月に続き、「エアウィーヴ」の開発で知られる高岡本州氏のお話をお届けします。

『思いもよらない話が舞い込んだのは、2004年のことでした。それは中部化学機械製作所を経営する伯父から父への依頼でした。この会社は釣り糸の押出成型機械を製造していましたが、アジアのメーカーに押され赤字が続いていた。伯父は日本高圧電気の株を持っており、父に「その株を買ってほしい。そして、借金をそれで埋め合わせてほしい」と言いました。70歳を超えた父は私に「経営者になった以上、株があまり外に出ては困るはず。何とかしろ」と言いました。父は株を手に入れたら伯父の会社を清算するくらいの意識だったようですが、伯父は「工場を更地にするのは嫌だ。経営を引き継いでほしい」という。1年ほどどうすべきか悩み、中部化学機械製作所を引き継ぐことを条件に日本高圧電気の株を買い取ることで伯父と合意しました。ただ、外部の株主もいますから会社から資金を出せません。私個人の資金で伯父と相対で買うことになり、買収・累積債務などに3億円ほどがかかりました。このため、私と父が日本高圧電気の予定退職金をそれぞれ担保に個人でお金を借りました。

伯父の事業を引き継いだのはファミリーの会社を守るためですが、個人で借金をしたため立て直すしかなかった。これが今の高反発マットレス「エアウィーヴ」の商品化につながります。日本高圧電気の社長と兼務だったため、週に1~2日を引き受けた会社の再建に充てました。再建に当たり15人ほどいた社員のうち5人が退職しました。他の5人が日本高圧電気に移り、5人が会社に残りました。電力自由化もあり、私は新しい事業が必要だと考えていました。釣り糸の製造技術を応用して糸状のポリエチレン樹脂を絡めたクッション材を事業化。当初は消波材、衝撃吸収材などにどうかと考え、高速道路の緩衝材や椅子の座面などの素材として売り込みました。しかし、ほとんど売れない。売れても単なる素材として買いたたかれました。赤字も累積して先行きの見えない状況が続きました。この時、自身の体の不調から新商品の着想を得ました。私は大学院を終える頃、タクシーの追突事故でむち打ちになり、肩や首の凝りに悩んでいました。以来、飛行機などで長時間移動する際には、低反発のウレタン素材でできた携帯用U字形枕を使っていました。ただ低反発素材は寝返りしにくく、寝具には向かないと考えていたのです。そこでポリエチレン樹脂のクッション材を寝具に使うアイデアをひらめきました。事故が事業のきっかけになるわけですから不思議なことです。しかも大学で物理を学び、力学的な反発係数について理解していた。当社のクッション材はウレタン素材などよりも反発力があるため、寝返りが打ちやすいと思いついたのです。「大きな寝具を売る方が事業にしやすい」という考えもありました。

とはいえ当初は寝具メーカーになるつもりはなく、BtoBのビジネスを考えていました。素材として売り込もうとベッド会社を回りましたが、相手はバネ関係のエンジニアばかりでクッション材に関心がありません。経営学で学んだ「NIH症候群(自前主義、既存の製品やアイデアに対し、『外部の組織』発を理由に軽視すること)」でした。こうなったら寝具自体をつくろうと思い試作に取り掛かったのですが、当時はポリエチレン製の寝具の一般的な基準がありません。硬さの測り方や管理の方法を一から模索しなければなりませんでした。原料のポリエチレン樹脂を溶かして水に流すと、隣り合う樹脂が絡み合い、狙い通りの硬さ・厚みに仕上げたり、全体に硬さのムラをなくしたりするのに苦労しました。日本高圧電気の化学系のエンジニアにも開発に携わってもらいました。エアウィーヴが成長できたのは父の耕した物づくりの土壌が企業に根付いていた点が大きく、私もエンジニア出身なので色々と議論しました。試行錯誤の末、07年春に自信作のエアウィーヴが完成しました。しかし、これがまったく売れなかった。問題はこの業界の在り方に潜んでいました。』 縁や偶然の重なりが、エアウィーヴ事業につながっていきます。良いものができても売れなければ事業として成功とは言えません。この後どのように売上を伸ばしていったのか。続きは次回ご紹介いたします。


2023年3月の金言

2023年03月01日


Vol.135 2023年3月号

2023年03月01日

3月になりました。
寒さの中にも春の日差しを感じるようになってきました。
皆さま元気でお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします。

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】(日経ビジネスオンライン2023.2.24)

今月は、アスリート御用達のマットレスとして知られる「エアウィーヴ」を開発し、世の寝具に新たな価値を提供した高岡本州氏のお話を抜粋してご紹介します。

『私は1960年に名古屋市に生まれました。父は配電用機器メーカー日本高圧電気(愛知県大府市)の創業社長です。高等教育を受けられなかった父は苦労して事業を成長させました。しつけに厳しく子供の頃、私も2人の姉も家の庭の松の木に縛り付けられることも。父は「能力がない人物が社長になるべきではない」と言っていましたが、祖母らからは「あれだけ苦労して会社を大きくしたのだから、将来は継がないといけない」と言われつつ育ちました。中学・高校では理系の科目が得意でした。父の意向もあり高校卒業後は名古屋大学工学部に入学。専攻は電気が第1希望でしたがかなわず、応用物理学科を学びました。父から離れたい気持ちから卒業後は名古屋を離れ、慶応義塾大学大学院経営管理研究科に入りました。経営学修士号(MBA)を取得する頃には外で働きたい気持ちが強く、当時の長銀経営研究所から内定をもらいました。しかし、父は私に家業入りを説得。大学院で学んだ私は父が育てた300人規模の会社をゼロから立ち上げる大変さを理解しており、迷いました。

85年、「体調がよくない」という父の嘘に乗って父の会社に入社しました。ただ、入ってすぐ留学しています。語学の大切さを痛感していた父の考えです。私は奮起して米スタンフォード大学大学院の経済システム工学科修士課程に進みました。キャンパス内に住み毎日3時間睡眠で学ぶ日々。ビジネススクールには起業家を目指す人も多く刺激を受けました。2年後に修了し、26歳で日本に戻りました。

慶応、スタンフォードでの経験を経て家業を俯瞰すると、会社は父の「個人商店」でしかなかった。学んだ世界とかけ離れていたのです。ただ、父も「電力機器だけではいつかダメになるかもしれない」と考えていたようです。新規で建材事業に挑んでおり、私は同部門に配属されました。製品開発が中心の最初の2年はよかったのですが、マーケティングの段階で事業の難しさに気付きました。父は理屈抜きで「できる」と考える人でした。私がロジックで意見すると、父は一部を認めるものの、核心については自分の考えを貫いた。度々、ちゃぶ台をひっくり返すようなけんかをしましたよ(笑)。

転機は外の目を取り入れたこと。父も新規事業に問題があると気付いていました。「指導を受けられる先生はいないか」と父が聞くので、慶応の恩師である奥村昭博先生にアドバイザーで入ってもらいました。奥村先生は色々な経営者を見ており、「この会社はお父さんがつくった以上、お父さんを否定してはいけない」「新事業はマイナスかもしれないが、それも創業者のさが。本業はプラスだからマイナスプラスの差が一つの価値」と言われました。社内を見回すと父は社員からの信頼を得ていた。父の会社の幹部からも「戦国時代でいうと地方の小さな大名の息子みたいなもの。おやじとけんかをしても始まらない」と言われ、ハッとしました。「父を継いで会社を存続させるのは宿命」と自覚し、自分なりの努力を続ける気持ちになりました。入社して13年後、37歳で2代目社長に就任しました。2年後、経営者の判断として私は父の始めた新規事業の撤退を決定。それでも創業者のさがか、父は別会社で再び新たな事業を始めました。業績は全体として順調であり、製品は父の代から一貫して電力会社や鉄道会社から高い評価を得ていました。』

いかがでしたか?高岡氏は、創業者を親に持ち、一旦父親とは別の道を歩もうとします。しかし、事業を継ぐことを宿命と自覚し、この後、父の育てた土壌を生かして新規事業であるエアウィーブを育てます。エアウィーヴ開発時のお話は来月号に続きます。


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