Vol.159 2025年3月号
2025年03月03日

少しずつ春めいてきましたが
皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします!
【河合由紀子のちょっとイイ話】
今月は先月に引き続き、明治29年創業「あずきバー」で有名な三重県津市に本社のある井村屋グループ会長中島伸子氏のインタビューをご紹介します。
中島会長は、20歳になる直前に北陸トンネル列車火災事故というその後の人生を大きく変える出来事に遭っています。
(致知2024年6月号「人生のハンドルを握り扉を開けられるのは自分だけ」より)
『死者30名、負傷者714名を出した大惨事でした。もっとも、事故の体験を話すようになったのは、私が社長になってからなんです。私は戦後間もない1952年に新潟県の妙高市に生まれ育ちました。冬は3メートルほど雪が積もりますから、本を読むくらいしかすることがなく、小さいころから読書は大好きでしたね。(中略)雪が深いと学校の先生は家に帰れず、母の家がお寺だったので、そのお堂を宿坊にしていたんです。そうすると、先生たちは本をたくさん持ってきている。その姿をみながら「いいな」と。(中略)大きくなるにつれ、たくさんの生徒の人生を導いていく尊い仕事だと思い至り、教師になることを夢見ていたんです。
11月6日が事故の日で、11月8日が私の誕生日でした。当時、福井県に1人で暮らしていたのですが、家族が20歳の誕生日をお祝いしてくれるというので、敦賀から夜行列車に乗りました。4人掛けのボックス席で、目の前に3人の子供を連れたお母さんが座っていらして、生後2ヶ月のこと3歳と5歳、皆男の子でした。一番下の子は今回おじいちゃんとおばあちゃんに初めて会わせると。(中略)で、トンネルに入ってすぐでした。ガターッとものすごい音がして電気が消えて真っ暗になったんですよ。でも、私たちの車両は明るかった。なぜって隣の食堂車が燃えていたからです。次の瞬間、さっき出会ったばかりのお母さんが私の腕をギュッと掴んで、泣きながら言うんです。「3人の子供を連れては逃げられない。だけど長男は跡取り。この子だけでも連れて逃げてほしい」それで私は「嫌だ嫌だ」「お母さんお母さん」と大泣きする5歳の男の子を抱きかかえて窓から飛び降りたんですね。ところが着地した時の衝撃で子どもの手を離してしまった。どこにいるか全然分からない。黒煙が充満する中、一所懸命名前を叫んで探しているうちに気絶してしまったんです。意識を取り戻したのは、事故から2日後のちょうど私の誕生日でした。それまでは生死の境を彷徨っていて、向こうで誰かが読んでいるような感覚も実際ありました。両親が病院のベッドで寝ている私の傍で泣いていて、その涙が肌に触れた瞬間、冷たくて「あれ?」って。それで目が覚めたんです。その直後に、お母さんと3人の男の子が全員亡くなったことを知らされました。救ってあげられなかった辛さはいまもずっと残っています。あの時の5歳の子の顔が忘れられなくて…
私自身、一酸化炭素中毒で声帯が麻痺ひて声が出なくなり、3ヶ月入院しました。最初に喉から煤の塊が出てきたときは驚きでしたよ。声を使う仕事は諦めたほうがいいと医者に言われ、教師の道を断念せざるを得なかったんです。自分の行き先がある日突然ブッチッと切れてしまった。少しずつかすれ声は出せるようになりましたが、退院して3~4ヶ月は実家で療養しながら何もせずぶらぶら過ごしていました。』
壮絶な事故を経験した後、人生の目標がなくなり何もせずに過ごしていた中島会長は父から手紙を渡されます。来月はその手紙と、その後現在の立場に至るまでのお話をご紹介します。