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経営サポート隊通信
経営サポート隊通信

Vol.114 2021年6月号

2021年06月01日

皆様お元気でお過ごしでしょうか。
今月も経営サポート隊通信を
元気にお届けいたします!

【河合由紀子のちょっとイイ話】
今月も先月に引き続き、島精機製作所創業者の島正博のインタビュー記事の続きをお届けしたいと思います。
『初期型は手袋の指先を丸く編む機械でしたが、ひとまずは性能を落として指先を角形に編む方式に変更して再挑戦することにしました。ただし、懐は火の車です。資本金100万円に対し借り入れは6000万円。赤字額は300万円。さらに1カ月後の12月25日には60万円の手形の決済が迫っています。「島精機は潰れるで」と地元ではうわさが飛び交い、株主の一部は資金を引き揚げ、地元銀行は融資をストップ。妻・和代の通帳から無断で全額を引き出して、職人たちの給料の支払いに充てたほどです。なんとかしのいできましたが、もう打つ手はありません。和代からは「家に一銭も入れていない」と詰め寄られ、銀行からは「預金不足で電話代や電気代が引き落とせない」と矢のような催促がありました。
まさに背水の陣で、12月2日に新型の編み機の開発を始めました。「たんかを切った以上は何が何でもやり遂げる。そのためには寝ないようにしたらいいだけやんか」。そんな気持ちでした。12月に寝たのは22時間だけ。意識がもうろうとして機械に手を挟まれ、病院に運ばれるアクシデントもありました。それでも時間は足りません。紙に図面を起こしていては到底間に合わないので、私が8人の職人に直接、口頭で指示をしながら開発を進めました。数字が4桁になってしまうと、とても頭で覚えきれません。寸法をすべて偶数にすることで桁数を減らしました。編み機の性能を落としたのだから3週間もあれば完成すると踏んでいましたが、時間ばかりが過ぎていきます。焦りが募るなか、相棒の後藤武治専務は「死亡保障の生命保険に加入しておくべきや」と提案してきました。私が1500万円、専務が500万円、2人で2000万円の保険に入って、借り入れの返済原資にすることにしました。いざとなったら、会社のすぐそばを走る国鉄の列車に飛び込もうという覚悟です。編み機は完成せず、資金繰りのめども立たないまま、とうとう手形決済の前日を迎えます。「もう列車に飛び込むしかないか」。ぼんやりとそんなことを考えながら開発を続けていると、夕方に風呂敷包みを持った見知らぬ男性が会社に私を訪ねてきました。「決済に間に合うよう金を持ってきたで。領収書も何も要らん。返済は金ができてからでええから頑張りなさい」夢か現実か、私はあっけにとられました。受け取った風呂敷包みの中には100万円の現金が入っていました。あの重みは忘れることができません。男性の正体は大阪で上硲金属工業を経営する上硲俊雄社長でした。このクリスマスイブの奇跡をお膳立てしてくれたのは、和歌山県の仮谷志良経済部長。のちに和歌山県知事になる仮谷さんは、早くから私の技術力に注目してくれていたそうで、私の窮状を聞きつけて部下にスポンサー探しを指示していたのです。
九死に一生を得た私はこの日から1週間、ほぼ一睡もせずに開発に没頭しました。座ると眠くなるので食事は立ったまま。当時出回り始めた大正製薬の栄養剤「リポビタンD」を水代わりにして作業を進めました。大みそかを迎えてようやく試作機ができあがりました。想定では、スイッチを押してから2分15秒で手袋が編み出されるはずです。白浜行きの列車が和歌山駅を出発する午後3時ちょうどにスイッチを押しました。もし手袋が出てこなかったら、会社の近くにある警報機のない踏切からその列車に飛び込むつもりでした。生きるか死ぬか。命をかけてスイッチを押すと、機械は軽快な音を立てて動き出しました。2分15秒があんなに長く感じられたことはありません。時間通りに、指先から手首まで一気に編み上げられた手袋が出てきました。「ああ、死なずに済んだ」。やれることをすべてやりきっただけに、うれしさもひとしおでした。こうして島精機と私たちは最大のピンチを乗り越えたのです。私を支えたのは絶対にあきらめないというハングリー精神と、創造への熱い情熱です。それは、空襲を受けて焼け野原になった和歌山のまちで培ったものでした。


2021年6月の金言

2021年06月01日

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2021年5月の金言

2021年05月01日

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Vol.113 2021年5月号

2021年05月01日

皆様お元気でお過ごしでしょうか。
5月になりました。
今月も経営サポート隊通信を
元気にお届けいたします!

【河合由紀子のちょっとイイ話】
日経ビジネスオンライン(2020.11.20)で、島精機製作所の創業者であり会長である島正博氏のインタビュー記事を見つけました。戦後、様々な困難に見舞われながらも、前進を続けてきた不屈の精神が語られています。興味深い記事でしたので、今後も少しずつ掲載していきたいと思います。
『私が生まれ育ち、80年あまりの人生を送ってきた和歌山は、古くから繊維産業と縁の深い土地柄です。振り返ってみれば、アパレル産業を改善したいという思いに突き動かされて走り続けてきました。
子どものころからいろいろなものを発明してきましたが、人生の原点となったのはやはり16歳の時に発明した「二重環かがりミシン」でしょうか。メリヤス工場に勤め、家では軍手を編む内職をしていた母の苦労を少しでも減らしたいと思ったのがきっかけでした。当時の軍手は、甲の部分と手首の部分を別々に編んでから手作業でつなぎ合わせる工程が必要でした。私が発明したミシンなら、セットするだけで簡単につなぎ合わせることができます。仕上がりの強度も伸縮性も十分。結果、1日当たり1人3ダースだった生産量が、20ダースまで増えました。
繊維産業の課題解決に挑み続けるうちに至った一つの到達点が、無縫製ニット「ホールガーメント」の横編み機です。衣料品をまるごと立体的に編み上げる技術で、生地を裁断する必要もなければ、縫製もいりません。コンピューター上でデザインし、そのデータを入力すると、普通のセーターなら約30分、凝ったワンピースでも1時間ぐらいで、3Dプリンターのように完成形が機械から出てきます。好みの色や形で、ぴったりのサイズ。そんな世界に1着だけの服を、それほど高くない価格でオーダーメードできる。そんな仕組みが整えば、顧客の精神的な満足度は高くなるし、同時に生産や在庫、流通のロスもなくなる。人類の欲求を満たしながら、地球環境の保全にもつながります。
そんな目指す姿の実現が見えてきましたが、たくさんの困難に立ち向かった人生でした。これでダメだったら命を絶とうと覚悟したことすらありました。まずは私にとって人生最大のピンチだった1960年代、島精機製作所を創業した直後のことをお話ししましょうか。
いまから56年前。1964年の11月末、私は人生の崖っぷちにいました。全自動手袋編み機の開発を目指して創業してから3年目。初期型の機械はすでに完成していたのですが、なかなか思うように動いてくれません。一度に多くの機能を求めた結果、構造があまりに複雑になってしまい、部品の精度も生産体制もその要求に応えられなかったのです。見切り発車で製品化して売り出したものの、故障続き。加えて代理店の商社と販売価格をめぐって亀裂が生じました。我々は工場出し価格に10万円を上乗せした40万円を売値として希望していましたが、先方は75万円に設定して譲らない。こんなに高くてはとても売れないし、私が商売の心構えにしている「たらい理論」にも反する。
たらいにためた水を手前に引くと、一瞬は水位が上がるけれども、すぐに水が指から抜けていってしまう。逆に水を奥に押しやると、たらいの縁にぶつかった水が高くなって戻ってきますよね。まずはお客さんにもうけてもらえば、繰り返しの注文が入って利益が巡ってくる。それが創業時からの私の考え方でした。
販売価格の引き下げを要求しましたが、「値段をつけるのは売り主の勝手や」と一蹴されます。こう言われては私も収まりません。「なら、作るのは作る側の勝手やよって。もう作りません」。こうたんかを切って製造を打ち切ってしまいました。それが64年11月です。』
この後の内容は次号に続きます。


Vol.112 2021年4月号

2021年04月01日

皆様お元気でお過ごしでしょうか。
4月になりました。
今月も経営サポート隊通信を元気にお届けいたします!

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】(致知2021年1月号より)
今月はユニクロの会長兼社長の柳井正さんと元サッカー日本代表監督で現在はFC今治のオーナーの岡田武史さんの「運命を開くリーダーの条件」という対談から抜粋します。

岡田 柳井さんはずっと増収増益を維持してこられて、日本の多くの経営者に範を示してこられましたね。
柳井 いや、それは結果であって、僕はずっと失敗してきました。勝ち負けでいえば一勝九敗くらいだといつも言っているんですよ。一番の逆境は、フリースブームで成功した後でした。あれは49歳の時で、50歳を過ぎたら引退しようと考えて、社長を退きました。だけどそこで会社が満足して安定志向に入ってしまったんです。それが一番危険でね。企業に安定なんかないんですよ。だから僕は社長に返り咲いたのです。一度バトンタッチしたのに返り咲くというのは恥ずかしいですよ。創業者のエゴだとさんざん批判されましたけど、仕方がなかった。僕は、成長しない企業、収益がアップしない企業は、そこに関わっている人が全員不幸になるのでダメだと思っていますからね。    (中略)
岡田 たとえ負けても、この負けは俺に必要なんだと受け止めたらファイトが湧いてきて、すぐ立ち上がれるんです。僕は色紙を頼まれるといつも「人間万事塞翁が馬」って書くんですけど、それはこれまでのサッカー人生を振り返っての実感なんです。フランスワールドカップで初めて日本代表の監督になったけれども予選落ちして叩かれて、コンサドーレ札幌の監督になって一年目は勝てなくてボロカスに言われ、(中略)僕のサッカー人生は浮き沈みの連続でした。それでもここまでやってこられたのは、すべては自分に必要なことだと考え、受け止めてきたからだと思うんです。
柳井 本当に岡田さんのおっしゃる通りで、人生は一直線にうまくいくことなんかありません。それでもトップが絶対これをやろうと思わない限り、それは決して実現することはないでしょう。運命をひらくということは、自分がどこに行きたいかを明確にすることだと思います。あなたはどういう人生を歩みたいのか、どういう経営をしたいのか、自分の胸に問いかけることですよ。そして、自分の思い定めた行き先が会社と同じ方向を向いていることが一番幸せなんじゃないでしょうか。失敗する人は、あっちに行ったりこっちに行ったりするんです。だから僕はいまの商売をずっと続けて、行きつくところまで行こうと肚を括っています。その姿勢をブレることなく貫いていたら、たとえ大きな壁に突き当たっても、必ず協力してくれる人が現れて、それを乗り越えることができるものなんですよ。あいつがあれほど努力しているのだったら協力してやろうと。
岡田 そう思ってもらうには、平素からリスクを冒してチャレンジしていないとダメでしょうね。

経営とスポーツでは全く異なる世界のように感じますが、どちらも組織で目標を達成するという意味では同じで、お二人とも失敗を重ねながらも、前向きに目標に向かって取り組んでいるから、今があるということが感じられる対談です。


2021年4月の金言

2021年04月01日

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