経営サポート隊通信 | 大阪の経営支援ならプラス・パートナー
今月の金言
今月の金言

2023年6月の金言

2023年06月01日


Vol.138 2023年6月号

2023年06月01日

恵の雨の季節になりました。
みなさんお元気でお過ごしでしょうか?        
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします。

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】(「戦略経営者」株式会社TKC 2020年4月号)

今月は「戦国武将に学ぶ事業承継を成功させる五つのポイント」という記事を抜粋してご紹介したいと思います。

『経営承継について戦国武将の事例から学ぶことは多い。まずはビジョンを明確にする、あるいはストーリーを描くことの重要性である。自分はいつ辞めるのか、誰に継がせるのか、円滑な事業承継を行うために具体的に必要なことはなにか、この心構えは、事業承継計画の作成につながる。

このビジョンの明確さにかけて徳川家康の右に出るものはいないだろう。二代目将軍秀忠はもちろんのこと、次に次の代の後継者まで決めていたからである。三代将軍家光には弟忠長がおり、幼少期は父親の秀忠と母親のお江とともに忠長のほうが後継者にふさわしいと考えていた。兄の家光ではなく弟の忠長を後継者に推す動きが強まっていることを察知した乳母の春日局が、お伊勢回りに行くとうそをついて家康に会いに行き直訴したのは有名な話である。これを聞いた家康は素早く手を打った。駿河から江戸へ飛び三代将軍は家光であることを宣言。そしてまだ自分が現役のときから家光の後継者教育を行ったのである。家康は、兄弟間の上下関係をはっきりさせたことで、長幼の序が社会システムの基本であることを広く示した。この行動がなければ、これだけ長く江戸幕府は続いていなかったかもしれない。逆に失敗したのは豊臣秀吉である。なかなか実子にめぐまれなかった秀吉は、姉の子供で養子にとった秀次を関白に承継することを決める。ところが承継からわずか3年後に実子秀頼が誕生したのだ。ここで秀吉は掌を返し、秀次を高野山に追放して切腹させる。いとも簡単に計画を覆し、行き当たりばったりの行動を見せる秀吉に周囲は不安と不信を募らせたに違いない。このころから秀吉の治世に暗雲が立ち込めるようになる。この2人の対照的な事例から、事業承継に関するビジョンを明確にする重要性をはっきり認識することができる。

二つ目は、経営に対する心や思い、企業理念をしっかりと引き継ぐこと。全国には100年企業が約3万社あるといわれているが、その共通点は企業理念が代々受け継がれていることだ。この話題でよく題材として取り上げられるのが上杉謙信だ。謙信は何より人間としての正しい生き方、すなわち「義」を重んじた。自らの欲望に由来する戦は一切しなかったと伝えられている。有名な川中島の戦いも、武田信玄に領地を追われた村上義清を助けるためだった。この理念を受け継いだ上杉景勝以降、上杉家は、米沢藩の財政改革を実施した上杉鷹山、沖縄県令を務め、私財を投げうって沖縄に尽くした上杉重憲など不世出のリーダーが生まれる名門として幕府から一目置かれる家柄であり続けた。

三つ目は「争族」を防ぎ、お家騒動を起こさないようにすることである。このテーマでよく引き合いに出されるのは、隆元、元春、隆景の三兄弟が結束するよう言い含めた「毛利元就の三本の矢」のエピソードである。しかしここで注意したいのは、後継者はあくまで隆元ひとりであること。元就は元春と隆景の2人に力を合わせて隆元を支えていくように言った。家康も生前、尾張、紀州、水戸の御三家に対し「将軍家には絶対に逆らうな」と厳命していた。組織をうまくまわしていく規律としたのだろう。

右腕となるナンバー2の存在も極めて重要である。ただでさえ経営者は孤独だ。後継者の大きな支えになってくれる側近がいるかいないかで承継後の経営はだいぶ違ってくるだろう。戦国時代でいえば、名参謀と呼ばれ上杉景勝を支えた直江兼続の名前がすぐに浮かぶ。関ケ原で西軍についた上杉家はお家取り潰しの危機に瀕したが、兼続はすぐに家康のところに出向き謝罪。知恵者の本多正信の次男と娘を結婚させ徳川家と友好的な関係を結んだ。

最後のポイントは、経営革新や新しいビジネスモデル構築の必要性である。「時代の変化に応じてイノベーションを生み出さなければ企業の存続はない、それが後継者としての役割だ」と後継者が自覚を持つべきだ。毛利元就の後継者、輝元は安芸から長州に移り、石高が120万石から36万石に減少したが、次々と新事業を興し財政再建に成功した。家臣を農民や商人にして新田開発を奨励したり、紙の原料となるコウゾの栽培をはじめ上方に販売したりするなどしたのである。』

いかがでしたでしょうか?歴史から学ぶことは本当に多いと思います。いつの世も、企業に限らず組織が長続きするためには、いかに承継するかがポイントとなりますね。事業承継に関してご相談がありましたらお声がけください。


2023年5月の金言

2023年05月01日


Vol.137 2023年5月号

2023年05月01日

爽やかな風の心地よい季節になりました。
みなさんお元気でお過ごしでしょうか?
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします。

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】(日経ビジネスオンライン2023.3.2)

今月も3月号より掲載してきた「エアウィーヴ」の開発で知られる高岡本州氏のお話のつづきです。

『2007年6月ベッドや布団の上に敷くマットレスパッド「エアウィーヴ」を発売しました。薄く軽いパッドから始めた理由は売り場で扱ってもらいやすいため。物流が容易であることも理由の一つでした。(中略)売上高が数十億円規模になれば事業が軌道に乗ると思いましたが、簡単ではなかった。家具店は既存業者が売り場を囲っており、パッドですら売り場を確保できないのです。1週間で1枚売れれば御の字という状況が続きました。「体験すれば良さが分かる」。そう考えた私は、約200人の友人・知人に無料で商品を配りました。狙いは当たり、一晩使っただけで「すごくいい」と褒めてくれる人たちが出てきた。共通点は「スポーツマン」。体調に敏感な人々の評判が良かった。彼らの評価は私に自信を与えてくれました。覚えているのは、あるご夫婦の言葉です。スポーツマンのご主人は使った翌日に「これはいい」と連絡をくれた。奥さんは当初「よく分からない」との反応でした。しかし1週間後、奥さんも「週末に長時間使ったときに寝疲れしていなかった」と言ってくれたのです。「どんな人も1週間使えば良さが分かる」と思いました。半面、この結果は売り場で試すだけでは良さを伝えるのが難しいことを意味します。私は販売戦略を練り直しました。当時の寝具はプッシュ型の販売が主体。見込み客には値引きでプッシュした。(中略)

父から引き継いだ日本高圧電気では品質を強みにしていた。だからこそ、従来の寝具の販売手法と一線を引きたかった。そのヒントをとある米国出張で得ました。米ハーバードビジネススクールでブランディングなどを教えるジョン・デイトン教授と話す機会を得たのです。デイトン教授は「寝具を買う場合、店頭で実際に触れて次に価格が想定内かを見る。ブランドは最後に見るが、知らないブランドは買わない」と教えてくれました。最後にはブランドがモノをいう以上、「ブランド認知を高め、顧客から指名してもらうプル型のマーケティングでいこう」と決心しました。ディスカウントしない売り場を探し、たどり着いたのが百貨店と当時の東急ハンズです。名古屋、東京でアプローチし、足しげく通いました。一方、ブランドづくりの入り口はアスリート。身体の変化に敏感なトップアスリートに選ばれる寝具を目指しました。ターゲットは五輪選手。縁をたどって(中略)競泳の古橋廣之進さんと出会い、国立スポーツ科学センターを紹介してもらいました。宿泊施設で実際に使ってもらい、選手たちからは好評を得ました。選手たちから「五輪に持っていきたい」という声が出たことで、丸めて持ち運べるバッグ入りタイプを開発。08年開催の北京五輪では約70人の選手がエアウィーヴを持ち込みました。その一人が競泳の北島康介選手。彼は金メダルを獲得しました。「エアウィーヴも話題になる」と確信し、生産強化を指示しました。でも、思惑通りいかなかった。話題になっても、実際に売れるのは週に1〜2枚程度でした。低空飛行が続く中、日本高圧電気から事業資金を借りて食いつなぎました。年間3000万円だった資金援助は、やがて1億円に増加。09年5月の役員会では、とうとう父が融資を反対しました。(中略)私は腹を決め、日本高圧電気から資金の融通を停止してもらい、自分で金融機関から資金調達しました。そして会社を個人で買い取り、自らのリスクで勝負に出たのです。個人の借り入れは一時、10億円近くになったと思います。

10年のバンクーバー五輪が近づく頃、「五輪選手のサポートにマーケティング的な意味があるのか」と悩みました。それでも北京五輪で少なからず選手を支えた経験を思い出し、再チャレンジに臨んだのです。(中略)一般にも広く知ってもらうため、10年は人気宿泊施設である石川県七尾市の加賀屋に、14年には日本航空のファーストクラスに導入してもらいました。

認知度が少しずつ向上し、思い描いた売り場が確保でき始めたのがこの頃です。東急ハンズと高島屋で導入してもらい、他の百貨店も続きました。一気に大きな売り場が獲得できたわけではありません。1棚を2棚に、そこから少しずつスペースを拡大してもらう繰り返しでした。続けるうちに次第に注文が増え工場が忙しくなりました。11年には追い風が吹きます。フィギュアスケートの浅田真央選手が大会にエアウィーヴを持参し、忘れないよう手の甲に「マットレス」と書いた映像がメディアで流れたのです。浅田選手という光によってエアウィーヴのブランド認知度が急激に向上した。その後、浅田選手にはブランドアンバサダーに就任してもらいました。』

自らリスクを引き受け、販売戦略の仮説を立てて粘り強く突き進んでいく高岡氏。このシリーズにはまだ続きがありますので、ご興味のある方は『日経ビジネスオンライン 不屈の路程』で検索してみてください。


2023年4月の金言

2023年04月01日


Vol.136 2023年4月号

2023年04月01日

4月は新年度のはじまりですね。
暖かい春の陽気とともに、            
新しいことに挑戦するのによい季節ですね。
今月も元気に経営サポート隊通信をお届けいたします。

 

【河合由紀子のちょっとイイ話】(日経ビジネスオンライン2023.2.24)

今月も先月に続き、「エアウィーヴ」の開発で知られる高岡本州氏のお話をお届けします。

『思いもよらない話が舞い込んだのは、2004年のことでした。それは中部化学機械製作所を経営する伯父から父への依頼でした。この会社は釣り糸の押出成型機械を製造していましたが、アジアのメーカーに押され赤字が続いていた。伯父は日本高圧電気の株を持っており、父に「その株を買ってほしい。そして、借金をそれで埋め合わせてほしい」と言いました。70歳を超えた父は私に「経営者になった以上、株があまり外に出ては困るはず。何とかしろ」と言いました。父は株を手に入れたら伯父の会社を清算するくらいの意識だったようですが、伯父は「工場を更地にするのは嫌だ。経営を引き継いでほしい」という。1年ほどどうすべきか悩み、中部化学機械製作所を引き継ぐことを条件に日本高圧電気の株を買い取ることで伯父と合意しました。ただ、外部の株主もいますから会社から資金を出せません。私個人の資金で伯父と相対で買うことになり、買収・累積債務などに3億円ほどがかかりました。このため、私と父が日本高圧電気の予定退職金をそれぞれ担保に個人でお金を借りました。

伯父の事業を引き継いだのはファミリーの会社を守るためですが、個人で借金をしたため立て直すしかなかった。これが今の高反発マットレス「エアウィーヴ」の商品化につながります。日本高圧電気の社長と兼務だったため、週に1~2日を引き受けた会社の再建に充てました。再建に当たり15人ほどいた社員のうち5人が退職しました。他の5人が日本高圧電気に移り、5人が会社に残りました。電力自由化もあり、私は新しい事業が必要だと考えていました。釣り糸の製造技術を応用して糸状のポリエチレン樹脂を絡めたクッション材を事業化。当初は消波材、衝撃吸収材などにどうかと考え、高速道路の緩衝材や椅子の座面などの素材として売り込みました。しかし、ほとんど売れない。売れても単なる素材として買いたたかれました。赤字も累積して先行きの見えない状況が続きました。この時、自身の体の不調から新商品の着想を得ました。私は大学院を終える頃、タクシーの追突事故でむち打ちになり、肩や首の凝りに悩んでいました。以来、飛行機などで長時間移動する際には、低反発のウレタン素材でできた携帯用U字形枕を使っていました。ただ低反発素材は寝返りしにくく、寝具には向かないと考えていたのです。そこでポリエチレン樹脂のクッション材を寝具に使うアイデアをひらめきました。事故が事業のきっかけになるわけですから不思議なことです。しかも大学で物理を学び、力学的な反発係数について理解していた。当社のクッション材はウレタン素材などよりも反発力があるため、寝返りが打ちやすいと思いついたのです。「大きな寝具を売る方が事業にしやすい」という考えもありました。

とはいえ当初は寝具メーカーになるつもりはなく、BtoBのビジネスを考えていました。素材として売り込もうとベッド会社を回りましたが、相手はバネ関係のエンジニアばかりでクッション材に関心がありません。経営学で学んだ「NIH症候群(自前主義、既存の製品やアイデアに対し、『外部の組織』発を理由に軽視すること)」でした。こうなったら寝具自体をつくろうと思い試作に取り掛かったのですが、当時はポリエチレン製の寝具の一般的な基準がありません。硬さの測り方や管理の方法を一から模索しなければなりませんでした。原料のポリエチレン樹脂を溶かして水に流すと、隣り合う樹脂が絡み合い、狙い通りの硬さ・厚みに仕上げたり、全体に硬さのムラをなくしたりするのに苦労しました。日本高圧電気の化学系のエンジニアにも開発に携わってもらいました。エアウィーヴが成長できたのは父の耕した物づくりの土壌が企業に根付いていた点が大きく、私もエンジニア出身なので色々と議論しました。試行錯誤の末、07年春に自信作のエアウィーヴが完成しました。しかし、これがまったく売れなかった。問題はこの業界の在り方に潜んでいました。』 縁や偶然の重なりが、エアウィーヴ事業につながっていきます。良いものができても売れなければ事業として成功とは言えません。この後どのように売上を伸ばしていったのか。続きは次回ご紹介いたします。


-
お試し診断はこちら