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経営サポート隊通信
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Vol.115 2021年7月号

2021年07月02日

皆様お元気でお過ごしでしょうか。
今月も経営サポート隊通信を元気にお届けいたします!

【河合由紀子のちょっとイイ話】
5月から掲載している島精機製作所創業者の島正博氏のインタビュー記事が好評をいただいていますので、今月も続きを掲載したいと思います。(日経ビジネスオンライン 2020.11.27 「島精機・島正博氏(2)9歳の夜にクモの巣がくれたヒント」より)
『終戦から遡ること1カ月余り。1945年7月9日、和歌山は大規模な空襲に見舞われました。8歳だった私は家族と一緒に、自宅の裏山にあったお寺の墓地に避難しました。何とか逃げ切って自宅の方を振り返ると、焼夷(しょうい)弾が家に直撃して火の手が上がるのが見えました。墓地から見えた、和歌山城の天守閣が炎上して夜空を赤々と染めている光景を忘れることはないでしょう。多くの死傷者を出したこの空襲で和歌山は市街地の43%が焦土と化しました。朝を迎えると、辺り一面は焼け野原です。父は南方に出征したまま音沙汰なしで、安否も分かりません。後に終戦から3年がたってようやく戦死通知が届いたのですが、一緒に届いた白木の箱に入っていたのは「島武夫」と書かれた木片だけでした。「自分が大黒柱として家族を支えないといけない」。まだ幼い少年でしたが、焦土を前にしてこう強く思いました。まずは住むところをどうにかしなければなりません。ところが、バラックを建てようにも資材なんてどこにもない。焼けたトタンを拾ってきて屋根をふき、墓地にある角形の立派な卒塔婆を引き抜いて柱にしました。「すんません。こんな時なので堪忍してください」。手を合わせて12本ほど拝借しました。
住むところが確保できたら、次は食べ物です。とにかくおなかがすいて、毎日ふらふら。お金がないので、自分でつくるしかありませんでした。がれきを取り除きながら耕して、1年をかけて家の周りの100坪ほどを畑にしました。カボチャ、サツマイモ、ナス、キュウリ、トマト……。家族ではとても食べきれないぐらい。近所にお裾分けをしたり、物々交換をしたりしていましたが、そのうち天ぷらにして売ることを思いつきました。ただ、物資不足で油が手に入りません。闇市に出かけて天ぷら屋台のおじさんに分けてもらえないかと頼んでみました。「商売敵を増やすようなことできるか」と、最初はにべもありませんでしたが、父が帰らないことを打ち明けると、気前よく一升瓶を持たせてくれました。油は一級品で、海でとってきたキスやエビ、畑でとれた野菜でつくった天ぷらは飛ぶように売れました。
家族で食っていくために、できることは何でもしました。野菜くずとサザエの殻を混ぜたもので鶏を育てて卵を産ませる。空気銃で撃った野鳥や池で釣った食用ガエルを現金に換える。炭俵に細工をしたわなを川の貯木場に沈めてウナギを捕る。とにかく生きていくのに必死でした。祖父も戦後まもなく亡くなりました。祖母と母と妹を抱えて、ゼロから生活を立て直していく中で培ったハングリー精神と、生き抜くために日々繰り返した創意工夫。それが私の原点です。
9歳のころ、家族が当時大流行していた腸チフスで入院し、数日間を1人で過ごしたことがあります。「南無阿弥陀仏」と書かれた柱の立つバラックの家にはラジオもありません。夜になるとすることもないので、窓に張ったクモの巣を観察していました。クモは巣の真ん中に陣取り、ハエや蚊のような獲物がかかると素早く捕獲してまた真ん中に戻る。真ん中にいると全方位が見渡せるし、いつも獲物に対して至近距離で迫れる。カマをかけて端に構えて、裏をかかれるようなことはないわけです。クモは賢いなと。これがその後の人生のヒントになりました。行き詰まったときには一度ご破算にして、原点に立ち返る。そうすれば全方位で進路を考え直せます。積み上げたものを捨てるのは勇気が要りますが、後退することによって、これまでと反対の道を選ぶこともできる。全自動手袋編み機の時もそうでした。指先を丸く編む機能を棚上げして再挑戦したわけです。これまでの延長線上でしか考えないのでは進歩は望めません。』

この後オイルショックの際の危機へと話は続きます。次回をお楽しみに。


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